阪妻映画祭
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1975年が阪妻の二十三回忌にあたることから、当時の邦画五社が協力して「阪妻映画祭」と銘打ち、阪妻の代表作が1975年6月7日の日劇文化劇場を皮切りに、1976年にかけて全国各地で巡回上映された。当時の邦画各社は仲がいいとは言えず、ことに商売が絡むと二社ですらまとまったことがないと言われたため、当時としては画期的なイベントだった。映画祭の発案者は、業界の"裏ドン"こと全興連副会長で大旺映画社長・山田敏郎。山田は松竹のOBで「幌馬車の唄」や「人妻椿」の主題歌の作詞者でもあった(山田としを名義)。当時の邦画不況もあり、ローカルの小劇場は経営に苦しみ、強力な番組でも二週間持てばいい方。邦画の再上映でお茶を濁すことになるが、成績が下向するのは当然で、興行者の立場から眠っている映画の再発掘として、阪妻は現代(当時)に通じるものがあり、今出しても十分鑑賞に耐えれると考え「阪妻映画祭」を発案した。ネックになったのが、阪妻は松竹、日活、大映の出演作は多いが、当時の五社で影響力を増していた岡田茂東映社長と松岡功東宝副社長の二社には、阪妻の出演作が無いことだった。山田は自身の業界での地位を上げるチャンスとばかり、松竹社長で映連会長・城戸四郎に了解を取り付けた上で、すぐに岡田茂を説得に行った。山田は岡田を「いい話があれば即座に飛びついて自分のモノにしてしまう男」と城戸の後継者は岡田と見込んで、自分の懐に巻き込もうと画策していたため、岡田に「上映委員会副会長をやってくれ」と頼んだが「オレんとこ阪妻の写真ないからダメだ」と断られた。すかさず山田は「冗談じゃない、一本ある。『天狗の安』というのがある」 岡田「.....」。山田「第一、東映は時代劇で儲けて大きくなったんだから、せめて阪妻の追悼の意味で副会長やってくれてもいいじゃないですか」と無理やり副会長を引き受けてもらった。次に松岡功に頼みに行ったら同じく「ウチも阪妻の写真がないから降ります」と言われたが「いや『佐平次捕物帳 紫頭巾』があります」 松岡「.....」と、これで五社をまとめることが出来た。「阪妻映画祭」は予想以上の反響を呼び、半年間で1億1800万円の興行収入を上げ、旧作リバイバルの新しい道を拓いた。この成功により1975年11月に「日本映画名作祭」第一回の開催が決まり、「阪妻映画祭」同様に邦画五社が各社の過去の名作を全国各地で上映し大成功した。「阪妻映画祭」が好評で、有楽シネマを加えたことから「日本映画名作祭」は最初から三館上映を行った。これらの成功を受け、番線外劇場の「名作選」上映が盛んになった。
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