阪妻映画祭とは? わかりやすく解説

阪妻映画祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)

阪東妻三郎」の記事における「阪妻映画祭」の解説

1975年阪妻二十三回忌にあたることから、当時邦画五社協力して「阪妻映画祭」と銘打ち阪妻代表作1975年6月7日日劇文化劇場皮切りに1976年にかけて全国各地巡回上映された。当時邦画各社仲がいいとは言えず、ことに商売が絡むと二社ですらまとまったとがないと言われたため、当時としては画期的なイベントだった。映画祭発案者は、業界の"裏ドン"こと全興連副会長で大旺映画社長山田敏郎。山田松竹OBで「幌馬車の唄」や「人妻椿」の主題歌作詞者でもあった(山田としを名義)。当時邦画不況もあり、ローカル小劇場経営苦しみ強力な番組でも二週間持てばいい方。邦画再上映お茶濁すことになるが、成績下向するのは当然で、興行者の立場から眠っている映画再発掘として、阪妻現代当時)に通じるものがあり、今出しても十分鑑賞に耐えれると考え「阪妻映画祭」を発案したネックになったのが、阪妻松竹日活大映出演作は多いが、当時五社影響力増していた岡田茂東映社長松岡功東宝副社長の二社には、阪妻出演作が無いことだった。山田自身業界での地位上げチャンスとばかり松竹社長映連会長城戸四郎了解取り付けた上で、すぐに岡田茂説得行った山田岡田を「いい話があれば即座に飛びついて自分モノにしてしまう男」と城戸後継者岡田見込んで自分の懐に巻き込もう画策していたため、岡田に「上映委員会副会長をやってくれ」と頼んだが「オレんとこ阪妻写真ないからダメだ」と断られた。すかさず山田は「冗談じゃない一本ある。『天狗の安』というのがある」 岡田「.....」。山田第一東映時代劇儲けて大きくなったんだから、せめて阪妻追悼の意味副会長やってくれてもいいじゃないですか」と無理やり副会長引き受けてもらった次に松岡功頼み行った同じくウチ阪妻写真がないから降りますと言われたが「いや『佐平捕物帳 紫頭巾』があります松岡「.....」と、これで五社をまとめることが出来た。「阪妻映画祭」は予想上の反響呼び半年間で1億1800万円興行収入上げ旧作リバイバル新しい道を拓いた。この成功により1975年11月に「日本映画名作祭」第一回開催決まり、「阪妻映画祭」同様に邦画五社各社過去名作全国各地上映し大成功した。「阪妻映画祭」が好評で、有楽シネマ加えたことから「日本映画名作祭」は最初から三館上映行った。これらの成功を受け、番線劇場の「名作選」上映盛んになった。

※この「阪妻映画祭」の解説は、「阪東妻三郎」の解説の一部です。
「阪妻映画祭」を含む「阪東妻三郎」の記事については、「阪東妻三郎」の概要を参照ください。

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