阪急と阪神の経営統合に伴う経営統合
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「エイチ・ツー・オー リテイリング」の記事における「阪急と阪神の経営統合に伴う経営統合」の解説
投資ファンドの村上ファンドの電撃的な阪神株買い占めへの対抗策として行われた阪急ホールディングスによる株式の公開買い付けを経て2006年10月1日に阪神百貨店の親会社であった阪神電気鉄道が阪急百貨店の兄弟会社であった阪急ホールディングスと経営統合して阪急阪神ホールディングスになることに伴う事業分野ごとの経営統合の一環として阪急百貨店と阪神百貨店の経営統合も構想されていた。 ただし、阪急百貨店が阪急ホールディングスと資本関係が薄く、兄弟会社の位置づけで阪急ホールディングスの傘下に入っていなかったため、阪急阪神ホールディングスの傘下に加えず別途統合する方向とされていた。 しかし、先述のとおりこの2百貨店は異なる特徴を持ちながら、最大のライバルとして至近距離で激しい競争を繰り広げてきたため、店そのものにお客さまがついていて「同質化すると店の魅力を失う」だけでなく、規模などの関係で吸収合併される形となる阪神百貨店側の反発を回避して従業員のモラールを維持する必要性があったり、「日本一のデパ地下」を作った実力者で3代目株式会社阪神百貨店の当時の会長を務めると同時に親会社の阪神電気鉄道専務も兼務していた三枝輝行が「阪神経営陣は100年間の『無風状態』に慣れ、村上という嵐に慌てふためいた。」阪神の当時の経営陣が村上ファンドから逃げだしたいという思いだけで最大のライバルだった阪急との経営統合という常識ではあり得ない道を選択しているとして最後まで統合に反対していたため、「一体化は簡単ではない」との声も強かった。 そのため、2006年6月19日に阪急ホールディングスによる阪神電気鉄道株の公開買い付け(TOB)が成立して経営統合が事実上確定した1ヵ月後の7月20日時点でも具体的な連携策が決まっていない状況にあった。 だが、経営統合が事実上確定したことを受けて阪急と手を組んで仕事をすることは考えられないとして三枝輝行が阪神百貨店を去る決意をしたことなどもあって、阪急阪神ホールディングスの発足直前の9月22日に包括的な業務提携を行う合意が成立し、2006年10月に阪急百貨店と阪神百貨店の両社による業務提携委員会を発足させて経営統合も視野に入れた協議が進められていった。 2007年3月には第三者機関による資産などの適正評価手続き(デューデリジェンス)を終え、初代株式会社阪急百貨店が完全親会社として3代目株式会社阪神百貨店を完全子会社とする株式交換を実施した上で百貨店事業を新設分割することで共同持ち株会社の傘下に新たに設立される2代目株式会社阪急百貨店と3代目株式会社阪神百貨店が事業会社として傘下に入る形態で統合することで基本合意したことを3月26日に正式に発表した。 この合意を受けて2007年4月に約70万人ずつの会員を持つ百貨店カードの相互利用を始めて阪急百貨店と阪神百貨店の両方のうめだ本店同士の買い回りの促進を図ることから協業をスタートさせた。 2007年10月1日に初代株式会社阪急百貨店が株式交換により3代目株式会社阪神百貨店の全株式を取得し、同日付で初代株式会社阪急百貨店の百貨店事業を新設分割して2代目株式会社阪急百貨店を設立、初代株式会社阪急百貨店が持株会社となって商号を変更を行い、エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社が発足して経営統合し、2代目株式会社阪急百貨店と3代目株式会社阪神百貨店が事業会社として傘下に入ったほか、スーパーマーケット事業を統括する阪食も傘下の企業の一つとなった。 「店そのものにお客さまがついている」との考えから経営統合後も百貨店名は変更しなかった。
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