阪妻と稲垣浩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)
稲垣浩は「妻さんは僕がこれまでに出会った人のなかで最高に懐かしく、最高に好きな人のひとりである」と述べている。あるとき阪妻は「僕らは親友などというケチなつきあいでなくいこう」と不思議なことを言い出したという。若くして時代劇の大スタアとなった阪妻だったが、十一年間のプロダクション経営で得たものは名声でもなく財産でもなく、借金と人に裏切られた悔しさと、凋落する孤独の寂しさだった。景気の良かったとき整理に困ったほど集まった親友たちは、いつしか身辺から去って行ったという。裸一貫で日活に入社し、十年ぶりに戻った太秦にはかつて自分が開いた撮影所が新興映画として華やかに活動していて、阪妻は華やかだった昔を取り戻そうということより、トーキーに移り変わろうとしている時代に生き残ろうと必死だったのである。 阪妻が日活に入社したころ、稲垣は東宝入りが決まっていたが、日活が急に引き留めを開始して、違約金まで支払われ京都に引き戻された。あとで、この工作をしたのが阪妻だと知ったという。 日活で稲垣は独自の阪妻を作り出そうと企画を出したが、どの企画も「阪妻のイメージを変えては困る」と否決された。ところが一年過ぎたある日、殺陣師の河原利一が「筒井とは縁を切ることになったから、こののちはいままでの妻三郎にこだわらず、何か新しいものを考えて欲しい」との伝言を託されて来た。「筒井」というのは仲間内で「淀君」とか「宋美齢」などと陰口していた、阪妻のマネージャー兼愛人で、この女性がいつまでも阪妻のイメージにこだわっていたのだった。相当の決心を持ってこれを絶縁した阪妻のために、稲垣は『十人斬りの男』という阪妻用の脚本を改題して『地獄の蟲』とした。 この映画が気に入った阪妻は「ツケ鬚では演技もウソ鬚になる」と、本物の鬚を生やすことにした。すると脇役の市川小文治、市川百々之助、志村喬、団徳麿らも右に習って鬚を生やす熱の入れ方で、このとき初めて稲垣は阪東妻三郎という人の映画に懸ける意気込みと情熱を感じたという。 『地獄の蟲』は無事完成したが、ラストの自決の場面で晒の腹巻きに血がにじむという苦心の場面があり、内務省の検閲官はこれを「検閲保留」と処分した(戦前までは映画での流血はタブーだった)。会社は改訂してでも封切りたがったが、阪妻や脇役、スタッフに対し原型を変えたくないと稲垣はこれに応じなかった。このとき阪妻は「クサルことはないですよ。僕らはともかくりっぱな作品を作って、それをこの目で見たのだ。それを大衆に見せなかったのは僕らのせいじゃない」と慰めてくれ、稲垣を大変に勇気づけた。稲垣は「その後阪妻と数々の作品を生むことができたのも、親友などというケチなつきあいでなくつきあえたのも、すべてこの『地獄の蟲』が始まりだった」と語っている。
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