阪妻と『無法松の一生』
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「阪東妻三郎」の記事における「阪妻と『無法松の一生』」の解説
稲垣浩に「酒は行儀よく飲んで楽しむものだ」と教えたのは阪妻だった。阪妻はお猪口で飲んで、決してコップ酒のがぶ飲みはしなかった。自宅でも高脚の膳を据え、夫人や弟子に酌をさせた。あるとき弟子のひとりに杯を出したので、弟子はいただけるものと手を出すと、「お酌だよ、お前なんか台所でグッといけ」と言った。このように弟子に杯をやるなどということはめったにしない阪妻が、あるとき突然台所で茶碗酒だのコップ酒をやり始め、夫人も弟子も驚いた。普段は膝も崩さない阪妻が大胡坐をかいて酒を飲むありさまに、撮影所で不愉快なことでもあったのかと心配したというが、それは『無法松の一生』撮入前の役作りだったことがあとでわかった。『無法松』の現場では、よく吉岡夫人になりきった園井恵子がお茶を静かにたて、「先生、お茶が入りました」とすすめていた。阪妻も無法松を忘れず、へりくだってお茶をいただいていた。 阪妻が『無法松の一生』に主演してから、舞台となった九州小倉には松五郎の墓や碑が出来たうえ、映画で阪妻が見せた小倉祇園太鼓の早打ちは、フィクションが現実になってその後、祇園太鼓の基本の打ち方になってしまった。 1944年(昭和19年)、日華合作映画『狼火は上海に揚る』で阪妻は稲垣と二人で上海に渡ったが、あるとき場末の小店へワンタンを食べに入ると、店の主人や使用人が彼らを見てコソコソ囁いている。阪妻が「どうやら僕を知ってるらしいね」と言うので「日本人だからだろう」と稲垣が答えると「違う。ワンポーツォー(黄包車)とかパントンとか言ってるよ」と言う。現地の撮影所では「阪東妻三郎」は「パントン・シーサンラン」と呼ばれていたので、阪妻にはすぐわかったのである。「黄包車」は「人力車」のことで、彼らは『無法松の一生』を観たようだった。阪妻はニコニコ顔で立ち上がり、「うん、我姓(ウォーシン)、阪東妻三郎(パントン・シーサンラン)、你的(ニーデ)、黄包車(ワンポーツォー)の電影(デンエイ)、観観(カンカン)か、うん、そうかそうか」とあやしげな中国語で返すと主人は大喜びで恐縮しながら立派な紙と筆を捧げてサインを求めた。その戻りに阪妻は稲垣に「日本映画も、やっと国際的になったね」と言った。
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