歴史的観点
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アセンブリ言語は、ごく単純なものまで含めれば、プログラム内蔵方式のコンピュータの最初期の1940年代から存在している。EDSAC (1949) の initial orders(現代の用語ではブートローダーに相当するもの)は、テープにパンチされた十進によるアドレスを、内部表現の二進に変換するなどの機能を持っていた(命令については、「1文字のニーモニック」に見えるかもしれないが、それは実際には同機の機械語そのものである)。ナサニエル・ロチェスターは1954年に IBM 701 用アセンブラを書いている。1955年、Stan Poley が IBM 650 用言語アセンブリSOAP (Symbolic Optimal Assembly Program) を開発した。 アセンブリ言語は、初期のコンピュータでのプログラミングでの入力ミス削減や時間短縮に貢献し、機械語コード参照やアドレス計算といった退屈な作業からプログラマを解放した。その後高水準言語へと移行していったが、ハードウェアの直接操作、特殊命令の使用、性能向上といった目的で今もアセンブリ言語が使われている。特にデバイスドライバ、組み込みシステム、リアルタイムシステムでよく使われている。 歴史的には多数のプログラムがアセンブリ言語だけで書かれてきた。ALGOLの方言であるESPOLで書かれた Burroughs MCP (1961) が登場するまで、オペレーティングシステムはアセンブリ言語で書くのが普通だった。商用アプリケーションもアセンブリ言語で書かれている。例えば、IBMのメインフレーム用ソフトウェアの多くはアセンブリ言語で書かれていた。COBOL、FORTRAN、PL/I などが取って代わっていったが、1990年代になってもアセンブリ言語のコードベースを保守し続けていた大企業も少なくない。 初期のマイクロコンピュータでは、アセンブリ言語がよく使われており、OSやアプリケーションもアセンブリ言語で書かれた。これは、リソースの制約が厳しく、メモリやディスプレイのアーキテクチャが特殊だったからである。また、マイクロコンピュータ向けの高水準言語のコンパイラがなかったという面も重要である。また、初期のマイクロコンピュータのユーザはホビーストが主であり、何でも自前で作るという精神もそれに影響していたと見られる。 1980年代から1990年代にかけて、ホームコンピュータ(ZX Spectrum、コモドール64、Amiga、Atari ST など)でもアセンブリ言語がよく使われていた。というのもそれらのBASICは性能が低く、ハードウェアの全機能を利用できないことが多かったためである。例えば、Amigaにはフリーウェアのアセンブリ言語統合開発環境 ASM-One assembler があり、Microsoft Visual Studio に匹敵する機能を備えていた。 Don French が開発した VIC-20 用アセンブラは 1,639 バイトという小ささで、世界一小さいアセンブラと言われている。アドレスをシンボルで表現でき、各種アドレス計算(四則演算、AND、OR、冪乗など)が可能だった。 商用製品でアセンブリ言語を使う最大の理由は、使用メモリ量を最小にし、オーバーヘッドを最小にし、性能と信頼性を向上させるためである。1980年代のビジネスソフトでは、例えば表計算ソフト Lotus 1-2-3 などはアセンブリ言語で書かれていた。日本では松などが該当する。 1990年代に入っても、コンシューマーゲームの多くはアセンブリ言語でプログラムが書かれていた。しかしゲーム内容が複雑化し、プログラムの規模が増大するにつれて、アセンブラでは開発が困難となり、高水準言語による開発が主流となっていった。例えばプレイステーションではGCCが公式のSDKに含まれていて、標準の開発言語はC言語であった。この時代のゲーム機は3次元コンピュータグラフィックスの積極的な導入が始まっており、ハードウェア性能も向上したことから、C言語による開発も十分可能となったが、コンパイラの最適化能力が未成熟だったこともあいまって、ハードウェア性能を最大限引き出すにはアセンブリ言語を駆使した手動最適化や細かなチューニングが必要となることも多かった。セガサターンの最高性能を引き出してプレイステーションに対抗するには、アセンブリ言語を使うしかなかったと述べていた業界関係者もいた。ただし一方で、ファミコン時代すでにメタルスレイダーグローリーやスーパーファミコンのMOTHER 2・シムシティ、プレイステーションのクラッシュ・バンディクーで、開発の一部にLISPが使われていたという話もあり、当時のコンシューマーゲームの分野ではアセンブリ言語やC言語が全てだったというわけではない。 2000年代初頭、マイクロソフトは原始的なプログラマブルシェーダーに対応したDirectX (Direct3D) 8.0をリリースした。このDirect3D 8.0におけるシェーダープログラムは、グラフィックスハードウェアに依存しない中間言語(バイトコード)を出力することのできるアセンブリ言語(シェーダーアセンブラ)を使用して記述するものだった。2001年には世界で初めてプログラマブルシェーダーに対応したコンシューマーゲーム機として初代Xboxが登場したが、このXboxに搭載されていたグラフィックスAPIもDirect3D 8.x相当のカスタマイズ版であり、CPU上で実行するホストプログラム(ゲームアプリケーション本体のコード)はC++を使って記述する一方、GPU上で実行するシェーダープログラムの記述にはアセンブラを使用していた。のちにHLSLやCg (C for Graphics) といった高水準シェーディング言語が開発され、HLSLに対応したDirect3D 9.0以降はシェーダープログラムも高水準言語を利用して記述するようになった。Direct3D 10のシェーダーモデル4.0以降は、シェーダーアセンブラではなくHLSLの使用が必須となっている。 ゲーム開発の分野に限った話ではないが、C++やC#のような、Cよりもさらに高水準の言語が主流になってからも、コンパイラが出力したアセンブリコードを解析して最適化やチューニングの余地を探るといった手法は一般的に行なわれている。
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歴史的観点
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詳細は「地球史年表」および「進化」を参照 地球は、太陽や他の惑星と共に約45億4000万年前に原始太陽系星雲から誕生したとされている。月はそれから約2000万年後に形成された。当初は熱で融解していたが、外側から徐々に冷却され、固体の地殻が形成された。ガス放出や火山活動が原始大気を形成した。彗星の氷などから水がもたらされ、水蒸気が凝結することで海洋などの水圏が生まれた。そして約40億年前に高エネルギーの化学反応によって自己複製可能な分子が生まれたと言われている。 大陸は形成と離散を繰り返しており、数億年をかけて超大陸を形成しては、それが分裂するということを繰り返している。約7億5000万年前、既知の最古の超大陸ロディニア大陸が分裂を始めた。個々の大陸は再び集合してパノティア大陸を形成し、約5億4000万年前に再び分裂を開始した。そしてパンゲア大陸が形成され、これが分裂を開始したのが約1億8000万年前のことである。 新原生代に激しい氷河作用によって地球全体が氷に覆われたと見られる重要な証拠が見つかっている。この仮説的状態を「スノーボールアース」と呼ぶ。その直後の5億3000万年前から5億4000万年前にカンブリア爆発と呼ばれる多細胞生命体の劇的な増殖が始まった。 カンブリア爆発以降、大量絶滅が5回あったことがわかっている。直近で大量絶滅があったのは6500万年前で、おそらく巨大隕石の衝突によって鳥類に進化していなかった恐竜や大型爬虫類の絶滅を引き起こしたが、トガリネズミに似た小型のものが多かった哺乳類は生き延びた。この6500万年の間に哺乳類は活動領域を広げていった。 数百万年前、アフリカの小型のサルが二本足で直立する能力を獲得した。そこから人類が進化し、農耕を発展させ文明を生み出し、それまでの生命体には見られなかった速度で自然や他の生物に影響を及ぼすようになっていった。例えば、シデリアンに藻類が繁殖して酸素を大量に生み出し嫌気性生物が大量絶滅したが、それには約3億年を要した。 現代は完新世にあたるが、大量絶滅期にあたるとされており、これまでにない速度で絶滅が起きている。ハーバード大学のエドワード・オズボーン・ウィルソンらは、人類が引き起こした生物圏の破壊により、今後100年間に地球上の半分の種が絶滅すると予想している。進行中の絶滅イベントの範囲は生物学者が研究中であり、議論が続いている。
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歴史的観点
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中国本土の広がりを捉える方法のひとつは、漢民族が建ててきた古代王朝の領域を検討することである。中国文明は、中核地域である中原に発祥し、周囲の民族を征服して同化し、逆に征服されて影響を受けながら、数千年にわたって外へと拡大してきた。歴代王朝の一部、特に漢と唐は、拡張主義的であり、中央アジアへと勢力を伸ばしたが、晋や宋のように華北平原を北東アジアや中央アジアの対抗する遊牧勢力に明け渡してしまうこともあった。 漢民族が建てた最後の王朝である明は、中国を支配した最後から2番目の王朝でもある。明は布政使司(ふせいしし)13、皇帝直属の直隷2と、合わせて15の行政単位を設けて統治を行った。満洲族の建てた清が明を征服した後も、明の支配下にあった地域ではこの制度が維持されたが、それ以外の清の支配地域、つまり満洲、蒙古、新疆、チベットには、この制度を広げなかった。満洲は満洲民族の故地として特別に支配され、モンゴルやチベットでは土着の領主(土司)らを通じた間接支配を行った。その後、若干の制度再編があり、清は中国本土を十八省(一十八行省)の体制で統治していった。西洋諸国の初期の文献が「中国本土(チャイナ・プロパー)」として言及していたのは、この十八省の範囲であった。 明代の体制と、清の十八省では、細部では異なる部分もある。例えば、満洲の一部(遼東、遼西)は明の領土に組み込まれて山東省の一部となっていたが、明を征服する前にまずこの地域を征服した満洲族は、この地を中国本土から切り離し、清による中国統一後は副都・奉天府が管轄する、内地とは異なる行政制度の下に置くようになった。一方、清が新たに獲得した領土であった台湾は、中国本土の一部である福建省に編入された。チベット東部の一部となるカム東部は四川省に編入され、現在のミャンマー北部の一部は雲南省に編入された。 清末になると、省の制度を中国本土の外にも広げようとする動きがあった。台湾は、列強に対する国防上の観点から、福建省とは別の独立した省とすることとなり、1885年に「福建台湾省」(台湾省)が成立したが、後に日清戦争の結果、1895年の下関条約によって日本に割譲された。1884年には新疆省が設けられ、1907年には満洲に奉天省(後の遼寧省)、吉林省、黒竜江省の3省が置かれた。チベットではキリスト教宣教師に対する暴動の鎮圧を理由として四川総督の趙爾豊が軍を進め、諸侯やガンデンポタンの抵抗を押し切り西康省や西蔵省を置こうとした。内モンゴル、外モンゴルにも省制度を敷く提案はあったが実施はされず、これらの地域は1912年の清の滅亡まで、中国の省制度の外に置かれていた。 清代の十八省 当初の「十八省」直隷 - 後の河北省 河南省 山東省 山西省 陝西省 甘粛省 湖北省 湖南省 広東省 広西省 四川省 雲南省 貴州省 江蘇省 江西省 浙江省 福建省 - 1885年まで台湾を含む 安徽省 清末に追加された省新疆省 奉天省 - 後の遼寧省 吉林省 黒竜江省 台湾省 - 1895年に日本へ割譲 清末の革命家たちの中には、満洲族の支配から脱し、十八省の領域において帝国から独立した国家の建国を目指し、18個の星をあしらった旗(十八星旗)を用いた者もいたが、帝国をまるごと新しい共和国に置き換えようと、5条の旗(五色旗)を用いる者もいた。清が滅亡した際、皇帝は退位の宣言において新たに誕生した中華民国に全てを譲るとし、後者の考え方がこの新しい共和国の理念「五族共和」となった。ここにいう「五族」とは、漢族、満洲族、蒙古族、回族(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)、チベット族のことである。5条の旗は国旗となり(1912年 - 1928年)、中華民国は清から引き渡された五つの地方すべてを収める単一国家であるとされた。1949年に成立した中華人民共和国も、本質的には同様の領土の主張を行っているが、唯一の例外は、モンゴル国の独立を承認しているという点である。結果的に、中国本土という概念は、中国にとって好ましくない考え方となった。 清代の十八省は現在も存在しているが、境界線はかなり変更されている。北京市と天津市は河北省(直隷から1928年に改称)から離脱し、上海市は江蘇省から、寧夏回族自治区は甘粛省から、海南省は広東省から、重慶市は四川省からそれぞれ離脱した。広西省は、現在の広西チワン族自治区に改められた。清末に設けられた各省も概ね維持されているが、新疆省は中華人民共和国の下で新疆ウイグル自治区となり、東北部の3省は境界が変更され、奉天省は遼寧省と改称している。 清が滅んだ時点で、チベットと内モンゴル、外モンゴルは、中国本土の行政機構の外に置かれており、チベットや外モンゴルは事実上、中国の領域から離脱したのだとする議論も可能である(詳細は、モンゴル国、チベットを参照)。清を継承した中華民国、そして中華人民共和国の政府は、領土を守るためにこの分離をなかったことにしようと努めた。中華民国は、内モンゴルを中国本土に準じて扱い、後に中華人民共和国は内モンゴル全体を内モンゴル自治区とした。チベット東部のアムドとカムの東部・北部は中華民国によって青海省や西康省(後に四川省へ併合)に再編され、中華人民共和国もこれを継承している。最終的には、中華民国時代を通してダライ・ラマの統治下にあったウー・ツァンとカム西部でも、1959年のチベット動乱の事態を受けてダライ・ラマ14世がインドに脱出すると、中華人民共和国によってチベット地方政府(ガンデンポタン)は廃止され、「西蔵自治区籌備委員会」による統治を経て、1965年にチベット自治区が成立した。一方、外モンゴルは、ソ連の援助を受けて1920年に独立した。1961年には、モンゴル加盟案は安全保障理事会を米国の棄権、中国代表権を持っていた中華民国の投票不参加で通過(10月25日)し、モンゴル人民共和国の国連への加盟を果たした。
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歴史的観点
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歴史的に見れば朝鮮半島には多様な異民族が流入していた。たとえば『魏志東夷伝』には「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた」と記録されており、朝鮮半島の古代国家は国を割いてまで秦の亡民の建国を許していた。また、朝鮮半島中・西北部には漢の植民地である楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、大量の漢族が移住して土着化し、東北部は高句麗人、渤海人、女真人などツングース民族の流入が相次ぎ、また、高麗時代初期に異民族が23万8000人あまりも帰化していた。あるいは契丹が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もあった。 韓洪九によると、中国人の箕子・衛満、渤海遺民の集団移住、契丹(契丹の高麗侵攻)・モンゴル(モンゴルの高麗侵攻)・日本(文禄・慶長の役)・満州(丁卯胡乱)からの侵入など、歴史上朝鮮半島に大量に人々が流入した事例は数多くあり、韓国が単一民族というのは「神話」でしかない。韓国の姓氏の族譜では、祖先が中国から渡来した帰化姓氏が数多くあり(金光林によると、朝鮮の姓氏の半分は外国人起源であり、大半は中国人に起源に持つ)、少なくとも族譜が編纂された李氏朝鮮時代には、単一民族意識がなかった証左である。そもそも身分制社会だった近世では、支配層の両班と被支配層の奴婢・賤民が同じ血を分けた単一民族だという意識は成立しえなかったという。 「朝鮮の外来帰化氏族」も参照
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歴史的観点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 06:03 UTC 版)
上述のような関数の多くの例は、19世紀の数学においてよく研究されたものであった。例えばアーベル関数やテータ関数の他、ある種の超幾何級数がそのような例として挙げられる。またもちろん、ある複素媒介変数に依存する任意の一変数関数も、そのような例となる。しかしそれらの特徴的な現象は捉えられていなかったため、長年の間、解析学においてその理論の完成は十分ではなかった。ワイエルシュトラスの準備定理は現在では可換環論に分類されるであろう。それは、リーマン面の理論における分岐点の一般化を扱った局所的な描像である分岐を正当化したものである。 1930年代のフリードリヒ・ハルトークスと岡潔の成果により、一般理論の構築がなされ始めた。その当時の同分野における他の研究者には、ハインリヒ・ベーンケ、ペーター・トゥレン(英語版)およびカール・シュタイン(英語版)がいる。ハルトークスは、n > 1 のとき任意の解析的関数 f : C n ⟶ C {\displaystyle f:\mathbf {C} ^{n}\longrightarrow \mathbf {C} } に対してすべての孤立特異点は除去可能であるなど、いくつかの基本的な結果を証明した。ここで当然、周回積分と類似の概念は扱いが難しくなる。n = 2 の場合だと、ある点の周りの積分は、(実4次元で考えるため)3次元多様体上で行わなければならず、また2つの別々の複素変数についての逐次周回(線)積分は2次元曲面上の二重積分として扱われる必要がある。このことは、留数計算が非常に異なる性質を持つようになることを意味する。 1945年以降、アンリ・カルタンのフランスでのセミナーにおける重要な研究や、ハンス・グラウエルト(英語版)およびラインホルト・レンメルト(英語版)のドイツでの重要な研究によって、理論の描像は著しく変化した。多くの問題、特に解析接続についての問題が、明らかにされた。ここで一変数の理論との主要な違いが明らかになる。すなわち、C 内の任意の開連結集合 D に対して、その境界を超えて解析接続できない関数を見つけることができるが、n > 1 の場合はそのようなことはいえないのである。実際、そのような性質を持つ D はいくらか特殊なものとなる(擬凸性と呼ばれる条件をもつ)。最大限解析接続された関数の自然な定義域は、シュタイン多様体と呼ばれ、その性質は層係数コホモロジー群が消えるというものである。実は、(特に)岡の仕事を、理論の定式化において層を首尾一貫して使用することを導いたよりはっきりした基本へとすることが必要だったのだ。 さらに進んで、解析幾何(紛らわしいが、これは解析函数の零点の幾何に関する名称であり、初中等教育で習うような解析幾何学のことではない)や多変数の保型形式、偏微分方程式などに応用できる基本的な理論が構築された。また複素構造の変形理論(英語版)や複素多様体は、小平邦彦やドナルド・スペンサーによって一般的な形で記述された。さらに、セールの高名な論文GAGAにおいて、解析幾何 (géometrie analytique) を代数幾何 (géometrie algébrique) へと橋渡す観点が突き止められた。 カール・ジーゲルは、新たな多変数複素関数論の扱う関数がほとんどない、すなわち、理論における特殊関数的な側面は層に従属するものであったことに、不平をもらしたことが知られている。数論に対する興味は、確かに、モジュラー形式の特定の一般化にある。その古典的な代表例は、ヒルベルトモジュラー形式(英語版)やジーゲルモジュラー形式(英語版)である。今日においてそれらは、代数群と関連付けられている。(それぞれ GL(2) の総実代数体のヴェイユ制限(英語版)と、シンプレクティック群である。)それらは、保型表現が解析関数から生じうるものである。ある意味でこれはジーゲルと矛盾しない。現代の理論はそれ自身の異なる方向性を持つものである。 その後の発展として、超関数 (hyperfunction) の理論や楔の刃の定理(英語版)が挙げられるが、それらはいずれも場の量子論からいくらか着想を得たものである。その他、バナッハ環の理論など、複素多変数関数を利用する分野がいくつかある。
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歴史的観点
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「ジョフリー・エルトン」の記事における「歴史的観点」の解説
エルトンは、マーガレット・サッチャーとウィンストン・チャーチルの忠実な信奉者であった。エルトンはまた、欠陥だらけの歴史解釈を行なっているとして、マルクス主義の立場をとる歴史家たちを激しく批判した。エルトンは特に、イングランド内戦は16-17世紀の社会経済的変化によって引き起こされたものだとする歴史観に、強く異を唱え、内戦の原因の大部分はステュアート朝の王たちの無能ぶりにあると主張した。エルトンは、歴史家E・H・カーとの論争でも有名であり、カーの主張に対して、レオポルト・フォン・ランケの主張として知られる経験主義的「科学的」歴史学という19世紀的歴史解釈の立場を擁護した。エルトンが1967年に発表した『The Practice of History』(「歴史の実際」の意)は、もっぱらカーの1961年の著作『歴史とは何か』への応答として著されたものであった。 エルトンは、伝統的歴史学の方法論の強力な擁護者であったが、ポストモダニズムの登場によってその立場は揺さぶられ、その問題について「...実のところがらくた同然の知性の欠片を、最高級な思考形態、もっと深い真実なり内省が手に入るのだと吹聴する、悪魔のような誘惑から、無垢な若者たちの人生を護るために、私たちは戦っているのだ」などと述べた。かつての教え子のひとりであるジョン・ガイ (John Guy) によれば、エルトンにはもともと「歴史修正主義的傾向」が備わっており、それはクロムウェルについての著作にも、エリザベス1世統治下の議会についてのジョン・ニール (John Neale) の伝統的解釈への攻撃においても、17世紀半ばのイングランド内戦の原因をより偶発的な政治的要因に求める主張にも、現れているのだという。 エルトンは、歴史家の責務は、実証的な歴史の証拠を集め、その証拠が何を語るものなのかを客観的に分析することだと考えていた。伝統主義者の立場から、エルトンは抽象化された個人に拠らない営力を排し、歴史における個人の役割を強調した。例えば、1963年の著書『Reformation Europe』において、エルトンはマルティン・ルターと神聖ローマ皇帝カール5世の応酬に紙幅の大部分を費やした。エルトンは、歴史学が、人類学や社会学などと学際的に交わることに反対した。エルトンは、政治史こそが最も優れた、最も重要な歴史であると考えていた。エルトンは、神話を創り出すために歴史を追う者、過去を説明するために法則を創る者、あるいは、マルクス主義のような理論を生み出そうとする者には、何の価値もないと考えていた。
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歴史的観点
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「コンピュータ・アーキテクチャ」の記事における「歴史的観点」の解説
コンピュータ関連での「アーキテクチャ」という用語の使用は、1959年、IBMの研究所に所属していたライル・R・ジョンソンとフレデリック・ブルックスまで遡る。ジョンソンはStretchことIBM 7030について、研究報告を書いた。彼は、コンピュータについて詳細を省いてある水準の記述をしたものを、それまで使われていた「マシン構成」ではなく「システムアーキテクチャ」と称した。その後、Stretchの設計者の1人である ブルックスが、ある本で、「コンピュータ・アーキテクチャは他のアーキテクチャと同様、構造の利用者のニーズを決定する技法であり、それらニーズに合った経済的にも技術的にも可能な限り最適な設計を行うことである」と書いている。ブルックスは System/360 の開発でも大きな役割を果たし、そこで「アーキテクチャ」という用語は「ユーザーが知る必要のある詳細」という定義になっていった。その後、コンピュータ業界で「アーキテクチャ」という用語が様々に使われるようになった。 論文で初めて「アーキテクチャ」という用語が使われたのは、1964年の IBM System/360 に関するものであった。この論文ではアーキテクチャを「プログラマから見えるシステムの属性群。すなわち、概念的構造と機能的挙動であり、データフローや制御の構成、論理設計や物理的実装とは異なる」と定義した。この定義において、「プログラマ」から見たコンピュータの機能的挙動が鍵となっている。アーキテクチャに含まれる概念的構造は機能的挙動を理解するための補助的なものであり、ユースケースの範囲を拡大可能にする。 プロセッサ内部の処理方法やメモリアクセス方法(マイクロアーキテクチャ)がコンピュータ・アーキテクチャとされるようになったのは、もっと後のことである。
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歴史的観点
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先述のように一夫多妻制は概念史的に論ずることは困難であり、個別具体的な社会的文脈から把握せざるをえない。したがって本節では各文化での一夫多妻制のあり方を記述する。婚姻は生活の重要な要素であり、生態的・地域的な要素と同様に宗教的規範として規制が行われる分野である点に注意が必要である。
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