キリスト教宣教師
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:53 UTC 版)
「神戸外国人居留地」の記事における「キリスト教宣教師」の解説
神戸外国人居留地を訪れたキリスト教宣教師は、布教のみならず教育・医療・福祉の分野でも活躍した。 南メソジスト教会の宣教師ジェームス・ウィリアム・ランバスとウォルター・ラッセル・ランバスの父子は1886年(明治19年)秋に居留地47番館の自宅を開放して英語と聖書の講義所を開設し、「パルモア学院」と名付けた。パルモア学院は英会話学校のパルモア学院専門学校へと発展し、同学院女子部は啓明学院の前身となった。さらにジェームスは広島女学校(後の広島女学院大学)保母師範科(聖和大学の前身の一つ)の設立に関与し、ウォルターは1889年(明治22年)に関西学院を設立した。またジェームスの妻メアリー・イザベラ・ランバスは、1888年(明治21年)に神戸婦人伝道学校(後のランバス記念伝道女学校。前述した広島女学校保母師範科と共に聖和大学の前身の一つ)を設立したことで知られる。 前述のアメリカン・ボードに所属する女性宣教師、イライザ・タルカットとジュリア・ダッドレーは女子教育の向上に努め、1875年(明治8年)、諏訪山の麓に兵庫県初の女学校(通称「神戸ホーム」。神戸女学院大学の前身)を創設した。さらにダッドレーは1880年(明治13年)に神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校。前述した広島女学校保母師範科、神戸婦人伝道学校と共に聖和大学の前身の一つ)を設立した。 アメリカン・ボードの宣教師ジョン・カッティング・ベリーは前述のように兵庫国際病院(神戸万国病院。後の神戸海星病院)の医事監督を務めたほか、兵庫県病院(神戸病院。後の神戸大学医学部附属病院)の支配頭に就任し、神戸・姫路・三田で精力的に医療活動を行った。1873年(明治6年)1月には神戸病院において兵庫県史上初の人体解剖を行っている。ベリーは1877年(明治10年)に神戸の監獄でコレラが大流行した際に兵庫県の要請を受けて監獄内に立ち入り、監獄内の不衛生な環境や囚人に対する非人道的な扱いを目にした。ベリーは兵庫県知事に監獄制度の改善を訴え、複数の宣教師がベリーに続いて監獄を視察し、制度改善案を日本政府に提出した。 幼きイエズス会の修道女フィロメナ・バレンティン・アントニンは、1890年(明治23年)頃から居留地41番地の女子教育院で孤児の世話をした。アントニンの活動は太平洋戦争終結後まで続き、生涯に世話をした孤児は数百人に上った。
※この「キリスト教宣教師」の解説は、「神戸外国人居留地」の解説の一部です。
「キリスト教宣教師」を含む「神戸外国人居留地」の記事については、「神戸外国人居留地」の概要を参照ください。
- キリスト教宣教師のページへのリンク