ジュリア・ダッドレーとは? わかりやすく解説

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ジュリア・ダッドレー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/11 09:48 UTC 版)

ジュリア・ダッドレー

ジュリア・エリザベス・ダッドレー: Julia Elizabeth Duddley1840年12月5日 - 1906年7月12日)は、明治日本で活動した宣教師教育者アメリカ合衆国イリノイ州ネイパービル出身。神戸女学院大学の前身である「女學校」(通名「神戸ホーム」)、聖和大学[1]の前身である神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校)を設立した。

経歴

1840年アメリカ合衆国イリノイ州ネイパービルに生まれる。13歳で父と死別。イリノイ州のロックフォード大学を卒業後、数年間、地元の女学校で教職に就く。同時に母の看病にあたり、26歳で母を看取る[2]。その数年後、アメリカン・ボードが行った女性宣教師の募集に応じ、1873年3月にイライザ・タルカットとともに神戸に赴任。伝道活動を行う傍ら、同年9月にタルカットとともに民家(花隈村、のちに北長狭)を借り、私塾を開設。タルカットの書簡(1874.5.16)によれば、この私塾には「24人の少女と婦人」が集っていた。1875年10月12日、旧三田藩主九鬼隆義らの支援を受け、アメリカン・ボードの承認を得て、タルカットとともに諏訪山の麓に寄宿学校「女學校」(通名「神戸ホーム」、1879年「神戸英和女学校」、1894年「神戸女学院」と改称)を創立。舎監を務める。これは兵庫県最初の女学校である[3]。1880年、学校を去り、従姉妹のマーサ・バローズとともに神戸女子伝道学校(後の神戸女子神学校。聖和大学の前身)を設立。同校は日本最古の女性教職者養成学校である[4]。1901年、病を患い、アメリカへ帰国。カリフォルニア州南部で療養生活を送り、1906年7月12日、同地で死去[5]。故郷ネイパービルで両親と同じ墓地に葬られている[6]

脚注

  1. ^ 2009年4月1日に学校法人関西学院と合併(学校法人関西学院と合併しました。”. 関西学院大学. 2009年11月27日閲覧。)。
  2. ^ 中野2017、17頁。
  3. ^ 谷口1986、110頁。
  4. ^ 竹中2000、11頁。
  5. ^ 竹中2000、111-112頁。
  6. ^ 中野2017、24頁。

参考文献

  • 竹中正夫『ゆくてはるかに 神戸女子神学校物語』教文館、2000年。ISBN 4764265494 
  • 谷口利一『使徒たちよ眠れ 神戸外国人墓地物語』神戸新聞出版センター〈のじぎく文庫〉、1986年。 ISBN 4875214472 
  • 中野敬一(編)『神戸女学院の宣教師』神戸女学院、2017年

関連項目

神戸市立外国人墓地





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