安井てつ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/20 13:47 UTC 版)
やすい てつ 安井 てつ | |
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生誕 |
1870年3月24日(明治3年2月23日)![]() |
死没 |
1945年12月2日(75歳没)![]() |
墓地 | 多磨霊園 |
国籍 |
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出身校 | 高等師範学校女子師範学科 |
職業 | 教育者、雑誌編集者 |
著名な実績 | 東京女子大学学長 |
代表作 | 『久堅町にて』 |
影響を受けたもの | 海老名弾正、新渡戸稲造 |
影響を与えたもの | 二階堂トクヨ、青山なを |
宗教 | キリスト教 |
安井 てつ(やすい てつ、1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1945年(昭和20年)12月2日)は、日本の教育者。女子教育に力を注ぎ、新渡戸稲造とともに東京女子大学を創立した。東京都出身。
生涯
東京府駒込曙町(現在の東京都文京区本駒込)の旧古河藩藩士の長女として生まれる[1]。東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)卒業後は岩手県尋常師範学校や母校で教鞭をとり、1896年、文部省留学生としてイギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学で教育学を学ぶ[2]。帰国後に海老名弾正から洗礼を受けるも、母校から棄教を迫られタイのラーチニー女学校に転出、のちウェールズ大学で学び、帰国後に学習院や津田梅子の女子英学塾で教える[2]。また女性教養誌『新女界』(1909年創刊)の主筆も務めた[3]。1918年に新渡戸稲造に請われて東京女子大学の設立に参加、1923年に新渡戸の跡を継ぎ2代目学長に就任し、1940年まで務めた[4]。
安井てつにとって新渡戸稲造はクリスチャンの同志でもあり、片思いの相手でもあったようだと弟の安井勉は語っていた。
子供がいなかったので、甥の安井達彌が台湾から進学の為東京に来た際、東京女子大内の自宅に引き取り彼の世話を数年間していた。
1943年より東洋英和高等女学校(現・東洋英和女学院中学部・高等部)で校長事務取扱を務める[7]。
1945年、電車での通勤時に転倒して脚を骨折した。その年の12月2日に76歳で死去[2]。
著作

- 『久堅町にて』 警醒社、1915年6月 / 大空社〈叢書女性論〉、1995年6月、ISBN 4756800203
- 『若き日のあと : 安井てつ書簡集』 青山なを編、安井先生歿後二十年記念出版刊行会、1965年11月
脚注
関連文献
- 青山なを著 『安井てつ伝』 東京女子大学同窓会、1949年6月 / 大空社〈伝記叢書〉、1990年4月、ISBN 4872363809
- 青山なを編 『安井てつ先生追想録』 安井てつ先生記念出版刊行会、1966年8月
- 青山なを著 『青山なを著作集 第三巻 安井てつと東京女子大学』 慶応通信、1982年11月、ISBN 4766402715
外部リンク
- お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ - 肖像写真が閲覧できる。
公職 | ||
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先代 藤井利誉 |
![]() 1912年 - 1917年 主事事務取扱 1910年 - 1912年 |
次代 倉橋惣三 |
学職 | ||
先代 新渡戸稲造 |
東京女子大学長 1923年 - 1940年 |
次代 石原謙 |
その他の役職 | ||
先代 東洋永和女学校長 脇山司家太 |
東洋永和高等女学校長事務取扱 1944年 - 1945年 東洋永和女学校長事務取扱 1942年 - 1944年 |
次代 東洋永和女学院長事務取扱 小野徳三郎 |
先代 (東洋永和幼稚園師範科を改組) |
東洋永和保姆養成所長 1944年 - 1945年 |
次代 小野徳三郎 |
安井てつ
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安井てつとトクヨの出会いは、トクヨが女高師に入学したことがきっかけである。てつはトクヨの恩師であり、トクヨはクリスチャンのてつの下で聖書の学習に没頭し、英語専攻でない者には読解が難しいとされた『ヨブ記』さえ読みこなせるようになった。この経験が、後に金沢で体操教師となった際に教会に通い、ミス・モルガンから体操の指導を受ける契機となった上に、英語学習の成果がイギリス留学に生きることになるのであった。 トクヨが助教授として東京女高師に戻ると、てつは同僚になった。トクヨのイギリス留学が決まると、イギリス留学の経験者であるてつに大いに世話になり、イギリスへ出発するときには、てつが横浜港まで見送りに行っている。留学から戻ると、てつは東京女高師を去っており、東京女子大学に移っていた。てつ自身は体育指導を行っていないが、かねてより女子体育の重要性を十分認識しており、その専門家としてトクヨに東京女子大学で指導するよう懇願した。またトクヨが東京女高師に出勤せず、鎌倉に引きこもってしまった際には、てつのおかげでトクヨは東京女高師に復帰できた。 二階堂体操塾の設立構想期には、資金不足から東京女子大の体操場を借りることも視野に入れていた。(実際には自前の設備を整えることができ、借りずに済んだ。)二階堂体操塾・体専では、てつが理事を務めることでトクヨを支えた。このように、てつは女子体育の理解者として常にトクヨの味方であり続けた。
※この「安井てつ」の解説は、「二階堂トクヨ」の解説の一部です。
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安井てつと同じ種類の言葉
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