女子体育は女子の手で(1915-1922)
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「二階堂トクヨ」の記事における「女子体育は女子の手で(1915-1922)」の解説
1915年(大正4年)5月、東京女高師教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任する。同年6月には文部省講習会講師と教員検定臨時委員に就任、1916年(大正5年)7月には文部省視学委員になり、夏休みには自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回った。また著書『体操通俗講話』、『足掛四年』、『模擬体操の実態』を1917年(大正6年)・1918年(大正7年)に立て続けに出版、東京女子大学の学長となっていた安井てつに請われて、1918年(大正7年)5月から1922年(大正11年)3月まで同学で授業を行った。女高師と臨時教員養成所では共に家事科の生徒に体育を教え、ダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を行った。この時の教え子に、女子体育の指導者となる戸倉ハル、加藤トハ(旧姓:内田)がいる。戸倉はこの頃のトクヨが「女子体育は女子の手で」と口癖のように言っていたことを証言している。 授業では、イギリスから持ち帰ったメイポールダンス、クリケット、ホッケーを取り入れ、生徒を肋木にぶら下げておいてゆっくりと説明するのが常であった。この頃の体操指導は、上司の永井道明が苦労してまとめ上げた『学校体操教授要目』に従うことが求められていたが、その体操はドリルを中心とした味気ないものであり、トクヨは要目よりもオスターバーグから習ったイギリス式の生き生きとした体操を強引に実施していた。また、永井はダンスの価値をほとんど認めておらず、女高師の体操服も永井受け持ちのクラスがブルマーだったのに対し、トクヨのクラスはKPTCと同じチュニックを採用するなど、永井とトクヨの間に対立が生じていった。永井は自身の後継者としてトクヨに期待していただけに、裏切られた格好となり、トクヨは体操の資格がないクラスに配置転換されてしまった。さらに永井との対立は、東京女高師でのトクヨの孤立に至り、ノイローゼとなって鎌倉に引きこもってしまったこともある。この時は安井てつの助力により、無事に東京女高師に復帰した。一方で、オスターバーグからかけられた「ここ(KPTC)にちなみを持ったクイーンスフィールド体操専門学校を建てるように祈ります」の言葉を胸に抱き、学校を建てる構想を温め続けていた。 まず、トクヨは1919年(大正8年)の体操女教員協議会(東京女高師で開催)の場で女子の体操教師120人に呼び掛けて「全国体操女教員会」(後に体育婦人同志会に改称)を立ち上げ、自ら会長に就任した。全国体操女教員会を率いたトクヨは、スウェーデンの国立中央体操学校やイギリスのKPTCのような体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」を設立すべく10万円を目標に寄付を募り始めた。しかし1921年(大正10年)に文部大臣官房が「体育研究所」の設立議案を策定し、その経費が150万円と発表されると、トクヨは10万円では到底研究所を作れないことを悟り、また「国がいつか建ててくれるなら」と人々に思われたことで3,300円しか募金は集まらなかった。そこでトクヨは、構想を温めてきた自身の体操塾を設立する資金に募金を振り向けることに決め、寄付者に理解を求めた。次に、1921年(大正10年)5月に雑誌『わがちから』を創刊し、女子体育の重要性を社会に訴えた。『わがちから』は毎号1,000冊印刷し、平均500冊ほど販売していた。関東大震災による中断をはさんで1925年(大正14年)1月に『ちから』に改題、1927年(昭和2年)4月の『ちから第51号』を最後に発行を停止した。当初は女子体育の専門誌であったものの、次第に二階堂体操塾の宣伝に移行していき、末期の12冊は「体育写真画報」と銘打って完全に塾の紹介だけになっている。雑誌発行業務に追われて、トクヨは講習会や講演会を開く余裕がなくなり、視学委員の仕事も返上した。 『わがちから』を創刊した1921年(大正10年)には正六位に叙せられた。
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