女子体育と女子スポーツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:19 UTC 版)
「二階堂トクヨ」の記事における「女子体育と女子スポーツ」の解説
「日本女子体育専門学校 (旧制)#選手育成の批判から推進へ」も参照 トクヨが留学から帰国した当時の日本では、井口阿くりら先人の努力もむなしく、女子体育は男子体育よりも下位に置かれ、女子体育の標準点や到達点の設定には程遠く、男子体育を1段から数段下げた教材を女子に与えている状態であった。教育現場では、体力的に男子体育の指導が満足にできなくなってきた老教師が女子体育で威張り、トクヨは「この立ちぐされ連」と手厳しい批判を行った。「女子体育は女子の手で」というトクヨの口癖は、男性教師は女子の身体特性をよく理解せず、過度に配慮した体育を課す現状が女子のためになっていないという考えを表したもので、女性体操教師共通の思いであった。トクヨは著書『足掛四年』に「何時の世でも女らしい体操家が女子の世界には勝利を占めねばなりませぬ」という言葉を綴っている。また1925年(大正14年)に全国女学校長会議で「走高跳、スキー、バスケットボール、インドアベースボールなどは女子には過激なので深く考えて行わねばならぬ」と決議したことに対して、トクヨは自身の経験上、心配には及ぶまいとして、ある程度までは男子と同じでよいと意見した。 トクヨにとって女子体育の目的とは良妻賢母であり、健全な女性でなければ健全な子供を産めないので、女子体育は国力の源であると考えていた。また女子の身体の構造と機能は、男子より複雑であるから、男子体育よりも女子体育の方が重要であると主張した。したがって男子と同じ体育を女子にさせても成功はないと述べ、女子に適した教材としてダンスを採用した。逆に女子に適さない教材として激しい運動を挙げ、具体的にはマラソンを例示した。マラソンは女子には激しすぎる上、優美ではないからだとした。 他方で、当時の日本には新しいスポーツが次々と流入し、国際大会に出場する選手も増加傾向にあった。トクヨ自身、イギリスからクリケットとホッケーを日本に持ち帰った。トクヨの持ち帰ったクリケットとホッケーは、スウェーデン体操と並行してKPTCで行っていた競技であり、クリケットはKPTCで最も難しい競技、ホッケーは最も人気の競技であった。 しかしながら、当時日本でスポーツができるのはほんの一握りの人々であり、彼らとてスポーツを楽しむという領域にはなく、旧来からの武術的視点や国家意識高揚の視点にとらわれがちであった。このためトクヨは国民体育をある程度まで向上させることが先決で、選手の育成は二の次だと考えていた。その反面、国際大会で日本の女子選手を勝たせたいという思いがあり、「日本選手婦人後援会」なる組織を立ち上げて応援した。勝てば女の面目・母の面目が立つからという思いと、国際舞台での日本婦人の体面を保ちたいという思いからである。この矛盾はトクヨ自身、よく自覚しているものであった。そして、人見絹枝との出会いを通して、トクヨはアスリート養成に舵を切っていくのであった。
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