井口阿くりとは? わかりやすく解説

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井口阿くり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 08:46 UTC 版)

井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日明治3年11月22日) - 1931年昭和6年)3月26日)(通名:井口 あくり)は、日本体育学者。女子体育の母・日本体育の母。


  1. ^ <わらび座>「日本女子体育の母」秋田出身・井口阿くりの奮闘描く 4月開演”. 河北新報オンラインニュース (2019年2月19日). 2019年11月22日閲覧。
  2. ^ 進藤1986、662-663頁。長女次女は夭折しており、糺の戸籍に阿くりは二女と記載されている。
  3. ^ 進藤1986、659-661頁。
  4. ^ a b 村山 2004, p. 56.
  5. ^ 進藤1986、469頁。美の国あきたネット”. 秋田県公式WEB. 2010年5月9日閲覧。秋田女子師範学校は1880年(明治13年)5月に開校し、同年田中女学校は閉鎖令にともない廃校となっている。
  6. ^ 進藤1986、340頁、469頁、675-684頁。1881年(明治14年)9月17日の明治天皇巡幸のとき、12歳の阿くりは上等八級生だった。中等師範科卒業時は上等五級生に相当し、2年後上等師範科には第五級から再入学している。
  7. ^ 進藤1986、469-470頁。秋田市立旭北小学校HP”. 秋田市教育委員会. 2010年5月9日閲覧。この母校は旭北学校(田中女学校の跡地にできたが1886年(明治19年)4月30日火事で焼失)か児玉女学院か断定できない。旭北学校は秋田市立旭北小学校の前身。
  8. ^ 進藤1986、338-348頁。日本キリスト教女性史(人物編)”. 2010年5月11日閲覧。この頃の事情は富樫つる子の追悼文に詳しい。1885年(明治18年)秋田女子師範学校教頭に赴任した松本荻江は女子教育の改革を推し進めたが、師範学校令発布に伴い秋田県令により同年7月秋田女子師範学校は解散。生徒は全員退学となった。8月に秋田県尋常師範学校が組織された後、再試験が行われ10月の秋田県尋常師範学校予備科入学を経て1886年(明治19年)1月秋田県尋常師範学校尋常師範科第一年級に編入となった。松本は秋田県尋常師範学校への再編を待たず辞職している。
  9. ^ 進藤1986、432-438頁。また阿くりは師範学校時代に渡部こうの指導を受けた。渡部は1885年(明治18年)東京女子師範学校を卒業後秋田女子師範学校の教諭となり、1888年(明治21年)まで奉職。翌年町田忠治と結婚した。阿くりの晩年には後援会を作り活動を支援した。
  10. ^ 進藤1986、496頁。特撰生になるための選抜試験は課された。
  11. ^ 進藤1986、471-501頁。茂木チヱは1871年9月4日(明治4年7月20日)生まれ。秋田太平学校から秋田女子師範学校附属小学校を経て、1883年(明治16年)秋田女子師範学校に入学。1885年(明治18年)15歳で同校中等師範科を卒業。保戸野小学校教員、旭北小学校二等助訓を勤めた後阿くりより一ヶ月早い1886年(明治19年)4月に秋田師範学校女子教員養成部高等師範科第三級に入学した。茂木が後に秋田県高等師範学校訓導となるにあたって提出した履歴書が残されており、富樫の追悼文の内容を裏付けている。
  12. ^ 進藤1986、499頁。卒業時には茂木が首席だった。女子高等師範学校卒業生15名を代表し茂木が作成した「謝辞」稿が残されている。
  13. ^ 進藤1986、662-663頁。
  14. ^ 水原1990、461-490頁、516-517頁、560-593頁。1886年(明治19年)3月1日公布の帝国大学令、同年4月9日公布の小学校令、同年4月10日公布の師範学校令中学校令による一連の改革でエリートの一極集中と教育の中央集権化が図られた。師範学校と中学校にはそれまで歩兵操練が課されていたが、軍籍にない教師が指導していたため軍事教練としての意義は薄かった。森はこれを兵式体操として整備し、陸軍省の武官が体操科を管理するよう制度改革を行っている。軍では年少の士官の命令にも従順でなければならず、儒教主義教育から一線を画した道徳教育を必要としていたため森の政策は歓迎された。兵式体操は正しく身体を鍛えることで精神面も高められるものとされ、各地の教育者は陸軍の体操教育を見学するようになる。高等師範学校の士官学校化は山川浩校長の下迅速に進められた。
  15. ^ 水原1990、226-233頁。1878年(明治11年)5月14日の大久保利通暗殺事件に衝撃を受けた明治天皇は、同年の地方巡幸後元田ら侍補と教育についての意見をまとめ、田中不二麿によって進められてきた米国法を基とする教育政策を名指しで批判。さらに翌年8月には内務卿伊藤博文と文部卿寺島宗則に教学聖旨を下付した。これは儒教を根本精神とする徳育を中心に展開されており、前月元老院から上奏された教育令の方針に対立する主張だった。子供は本来善であるのに教師の品行が悪いため天下の乱れを招いているとした性善説に基づく思想や、教科書は洋書を用いたものでありながら教師は適切な和訳を与えることができず、結果空論に陥り実生活の役に立たないとの教学聖旨の指摘は、巡幸での天皇自らの観察によって裏打ちされていた。
  16. ^ 世界1981、243-248頁。深谷1998、94-101頁。明治10年代には尾崎行雄によるスペンサー、深間内基によるミル、鈴木義宗によるエイモス(Sheldon Amos)、松島剛井上勤によるスペンサーの訳出があり、その後も栗原亮一による評論と渋谷慥爾によるフォーセット夫妻(Henry Fawcettミリセント・フォーセット)、久松定弘によるデゥリング巌本善治によるケーレー(Francis King Carey)、俣野時中によるボーリュ(Adolphe le Hardy de Beaulieu)の訳出が続く。これらは植木枝盛中島湘煙らの活動にも影響を与えた。1885年(明治18年)には『女学雑誌』が創刊され、明治20年代には教育論の紹介だけでなく、その受容に関心が移っている。
  17. ^ 世界1981、242頁、249-254頁。深谷1998、102-106頁。東京では外国人宣教師により女学校が相次いで設立された。1884年(明治17年)の東洋英和女学校、1887年(明治20年)のフレンド学園香蘭女学校設置認可など。また1884年(明治17年)の跡見学校での英語教育開始、頌栄学校開校、1885年(明治18年)の明治女学校開校、1887年(明治20年)5月の華族女学校の洋装実施、1888年(明治21年)の東京女学館開校など、日本人が設立した女学校でもこの時期はキリスト教の影響を受けている。
  18. ^ 世界1981、249-251頁。深谷1998、106-109頁。地方でも多くの女学校が創設された。1887年(明治20年)の高知県尋常中学女子部私立淡海女学校静岡女学校、1888年(明治21年)の鳥取高等女学校済々黌附属女学校前橋英和女学校など。一方では1887年(明治20年)に岐阜県立女学校、1888年(明治21年)に県立愛知女学校、群馬女学校が資金難のため創立わずかで廃校となった。地方では師範学校、中学校の予算確保に精一杯で、後述する私立毛利高等女学校のように有力者の資金提供を得て運営を継続する女学校が多かった。
  19. ^ 生田2009、158-161頁。世界1981、249頁。深谷1998、102頁。青山1982、406-409頁。お茶の水女子大学附属高等学校 沿革”. お茶の水女子大学附属高等学校. 2010年6月21日閲覧。東京高等女学校は1872年(明治5年)創立の官立東京女学校が母体。1877年(明治10年)に廃校となるが、生徒は東京女子師範学校に新設された英学科に移籍。1880年(明治13年)の東京女子師範学校予科を経て、1882年(明治15年)東京女子師範学校附属高等女学校となる。1886年(明治19年)2月、森文相は同校を高等女学校として独立させ、同年6月東京高等女学校と改称。翌年には官制改正により文部省直轄学校となるが、森の死後1890年(明治23年)には再び女子高等師範学校の附属高等女学校となる。東京高等女学校は1886年(明治19年)の独立で、教科に英語・代数・幾何・外国地理などを加えた。翌年のカリキュラムは週28時間中英語が8時間、音楽が7時間、家事2時間だった。青山なをはこの変遷を開明派(官立東京女学校・東京高等女学校)と復古派(東京女子師範学校附属高等女学校・女子高等師範学校附属高等女学校)のせめぎ合いと捉えている。
  20. ^ 青山1982、27-30頁、305-313頁「安井てつ年譜」。東京1981、55-57頁。村山2000、98頁。『東京女子高等師範学校六十年史』や在校生だった安井てつ(1870年3月24日(明治3年2月23日)-1945年(昭和20年)12月2日)はこのころの教育について批判的に回想している。
  21. ^ 進藤1986、486-492頁(茂木チヱ)全歴表。495-497頁、790-807頁「阿くり」年譜。阿くりが女子高等師範学校を卒業してから私立毛利高等女学校の教頭となるまで、5年8ヶ月の様子については詳しくわかっていない。茂木チヱは井口糺夫妻の薦めで、卒業の翌年陸軍軍医浅石長雄と結婚。1895年(明治28年)5月東京に呼び戻され女子高等師範学校訓導となる。阿くりが山口に赴くまでの2年6ヶ月はチヱとともに助け合っていたかもしれない。
  22. ^ 進藤1986、502-507頁。
  23. ^ 山口県立山口高等学校HP沿革表”. 山口県立山口高等学校. 2010年5月14日閲覧。山口県立山口中央高等学校HP歴史”. 山口県立山口中央高等学校. 2010年5月15日閲覧。コトバンク デジタル版日本人名大事典+Plus”. 朝日新聞社. 2010年5月14日閲覧。私立毛利高等女学校はそれまでの山口高等女学院を毛利家が経済援助して創立。現在の山口市中河原町早間田にあった。現山口県立山口高等学校山口県立山口中央高等学校の前身。校長は帝国大学を卒業し山口県参事官を務めていた上山満之進(1869年10月31日(明治2年9月27日)-1938年(昭和13年)7月30日)が兼任した。上山はその後農商務省山林局長、熊本県知事第2次大隈内閣の農商務次官を経て第11代台湾総督に就任し、昭和金融恐慌下の台湾銀行問題の収拾に奔走。1899年(明治32年)1月に上山は退職し、毛利五郎男爵が校長を引き継いだ。
  24. ^ 西村1983、63-64頁。
  25. ^ “井口 あぐり イノクチ アグリ”, 20世紀日本人名事典, 日外アソシエーツ, (2004), https://archive.is/kGRGI 


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