教師生活と海外留学
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助教諭となって6年目の1897年(明治30年)、阿くりに転機が訪れた。山口で開校される私立毛利高等女学校の教員について、毛利公爵家が女子高等師範学校に人選を依頼したのである。毛利家の使者井上馨侯爵と面談した阿くりは教頭として奉職することになり、そこで年長の男性を含む十数名の教職員の監督と三十名余の女学生の教諭、さらに寄宿舎の舎監として生徒の生活全般にも責任を負った。 明治20年代後半から30年代前半は女子教育の転換期にあたる。文部省は1895年(明治28年)1月発布の高等女学校規定を通じて女子中等教育機関の運営面の基準を定めたが、それには女子をどのように教育すべきかという指針が明らかにされていなかった。それまで高い教養を身につけることができたのは官立の華族女学校や女子高等師範学校、私立のキリスト教主義女学校などに学んだ有力者の子女だけであったが、細川潤次郎や西園寺公望らの政治家が直接女子教育に関わるとともに、成瀬仁蔵や津田梅子による女子大学設立の準備も始まり、中央においては女子高等教育の門戸が開きつつあった。一方で国家的見地からすれば、地方の有産階級にくまなく高い教育を施し富国強兵政策を推し進めることが急務とされていたが、当時女子は子どもを産み育て家庭を守るものとされており、地方社会においては特に強い抵抗にあった。しかし日清戦争の勝利に伴い欧米列強に伍することが次の国家目標とされると、それまで指針が明確でなかった女子中等教育は、男性社会を支え、強い日本人を産み育てる良妻賢母教育として結実する。阿くりが着任した私立毛利高等女学校は、まさに良妻賢母を校是とする女学校だった。 一方、女子高等師範学校では同年高嶺秀夫を学校長に迎え改革を図っていた。高嶺は1875年(明治8年)に伊沢修二、神津専三郎とともに文部省の第1回留学生としてアメリカに留学しペスタロッチ教授法を学んでおり、また体育にも関心を持っていたため女子体育を女高師で教授できる人材を求めていた。阿くりが山口で教鞭を執っている間、高嶺が文部省に阿くりの海外留学を働きかけたと考えられる。 1899年(明治32年)5月、29歳の阿くりは文部省より教育学研究のため満3年間のアメリカ留学を命じられる。同年8月渡米。9月からマサチューセッツ州ノーサンプトンのスミス大学に入学。生理学と体育学を専攻した。翌年9月同大学の体育部長センダ・ベレンソン(スウェーデン王立中央体操学校に学んだ最初のアメリカ人女性)の勧めによりボストンのボストン体操師範学校に入学する。校長はエイミー・モーリス・ホーマンズ。アメリカにおいてスウェーデン体操の実践的指導を最初期に行った1人で、当時最も高いレベルで女子体育教師を養成していた。阿くりはここで体操科・医術体操科・運動理論学・舞踏・遊戯法を2年間、解剖学・生物学・競争運動術・体育実地法・心理学・教育学を1年間学んでいる。スウェーデン体操の指導者としてのみ強調されがちな阿くりだが、舞踏では全身運動としてのダンス(エセティック・ダンスと呼ばれた)をその開拓者であるメルビン・バロー・ギルバートから直接学び日本に持ち帰った。代表曲であるポルカセリーズ・ファウストなどは後進の二階堂トクヨ・三浦ヒロらによって継承されてゆく。また、遊戯としてバスケットボールを日本に紹介した。それは女子の運動に適した形で改良された女子ルールで、阿くりの教え子達によって全国の女学校に広まったと考えられる。1902年5月同校を卒業。首席を示す1902年度の級旗を与えられた。(ボストン体操師範学校は女子の学校であったが、1906年永井道明を留学生として受け入れる。1909年ウェルズリー女子大学に吸収合併されその体育部となった。)1902年7月、阿くりはハーバード大学のサマースクール(校長はダドリー・アレン・サージェント。スウェーデン体操のみならず、ドイツ体操・フランス・イギリスからも各運動の長所を取り込みアメリカ独自の体育計画の作成とサージェント・システムと呼ばれた科学的な裏付けを構築した)で体操の講習を受講。9月から11月までアメリカ東部主要都市を巡廻。このときフィラデルフィアで野口英世と面会している。ヨーロッパを経由し1903年(明治36年)2月に帰国した。
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