学校体育の情勢と日露戦争
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「井口阿くり」の記事における「学校体育の情勢と日露戦争」の解説
1885年(明治18年)初代文部大臣となった森有礼は富国強兵政策を教育面から推進した。それまで「歩兵操練」と呼ばれた初歩的な軍事教練を「兵式体操」と呼称し学校令を通じて中学校、師範学校の男子に適用。小学校でも「隊列運動」として制度的に位置付けし確立すると、体操伝習所も翌年廃止され、引き継いだ高等師範学校校長には陸軍歩兵大佐山川浩が任命された。しかし森の兵式化教育はその教員となるべき高等教育を受けた軍人を多数必要としたため、末端の学校まで行き渡らなかった。陸軍には教育面に人材を投入できる余力が無かったのである。さらに体操伝習所が伝えた「普通体操」も明治30年代には形骸化し、武道復興の動き、遊戯・舞踊の発達など体育として扱われる運動の幅が広がると、現場の校長・教師達は自己の判断で体操を取捨選択し始める。学校令で定められているにも関わらず教科としての体操を行わない学校もあった。スウェーデン体操が学校教育に登場するのはこうした時期だった。 日本の文献にスウェーデン体操が現れるのは東京帝国大学初代医学部長の三宅秀が1884年(明治17年)に著した『治療通論』が初めとされる。その後1901年にはイギリスからエリザベス・フィリップス・ヒュースが来日し、講演の中で女子体育に適した体操であると推奨する。さらに1900年ボストンから医師川瀬元九郎が帰国。日本体育会体操学校において生理学・解剖学を教授するとともにスウェーデン体操の指導と奨励にあたり、1902年(明治35年)には『瑞典式教育的体操法』『瑞典式体操』を著し本格的な紹介を行った。これらの著書はアメリカにおける第一人者、ニルス・ポッセとハルトヴィグ・ニッセンの体操書の影響を受けており、阿くりのものとは系統は異なるもののスウェーデン体操の理論的な根拠となった。 しかしスウェーデン体操の登場は現場の混乱をさらに深めた。1904年(明治37年)10月、文部省は8名(委員長澤柳政太郎、委員高島平三郎・川瀬元九郎・可児徳・井口阿くり・波多野貞之助・坪井玄道・三島通良)の体操遊戯取調委員を任命し現状分析にあたるとともに、その対策を翌年11月「体操遊戯調査委員報告」として纏めた。この報告でスウェーデン体操は大体において採用すべきものとされたが、普通体操を「各個演習」(スウェーデン体操)と「連続演習」(スウェーデン体操と従来の普通体操との併用)に分け、選択の自由を認めたため学校体操を統一することは出来なかった。 この年はまた日露戦争開戦の年でもあった。日露戦争はそれまでの文部省と帝国陸軍の体育教育をめぐる関係を大きく変えた。戦争の拡大に伴い兵の低年齢化が余儀なくされると、即戦力としてまず身体面で“戦える”青年が必要となった。そこでこれまでの文部省から陸海軍へという流れが逆転し、陸海軍が文部省に対し学生に“実際的な”教練を行うよう強く要求したのである。しかし既存の兵式体操では効果は薄く、新しい体操を構築し早急に全国に広めるためには理論・実践のみならず思想面でも強固な人物に指導されねばならない。そこで文部省が選んだ人物が永井道明だった。永井は1905年(明治38年)11月、3年余の米欧留学に出発した。
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