学校体育の情勢と日露戦争とは? わかりやすく解説

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学校体育の情勢と日露戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:28 UTC 版)

井口阿くり」の記事における「学校体育の情勢と日露戦争」の解説

1885年明治18年初代文部大臣となった森有礼富国強兵政策教育面から推進したそれまで歩兵操練」と呼ばれた初歩的な軍事教練を「兵式体操」と呼称学校令通じて中学校師範学校男子適用小学校でも「隊列運動」として制度的に位置付け確立すると、体操伝習所翌年廃止され引き継いだ高等師範学校校長には陸軍歩兵大佐山川浩任命された。しかしの兵式化教育はその教員となるべき高等教育受けた軍人多数必要としたため末端学校まで行き渡らなかった。陸軍には教育面人材投入できる余力無かったのである。さらに体操伝習所伝えた「普通体操」も明治30年代には形骸化し武道復興動き遊戯舞踊発達など体育として扱われる運動の幅が広がると、現場校長教師達自己の判断体操取捨選択し始める学校令定められているにも関わらず教科としての体操行わない学校もあった。スウェーデン体操学校教育登場するはこうした時期だった。 日本文献スウェーデン体操現れるのは東京帝国大学初代医学部長の三宅秀1884年明治17年)に著した治療通論』が初めとされるその後1901年にはイギリスからエリザベス・フィリップス・ヒュース来日し講演の中で女子体育適した体操であると推奨する。さらに1900年ボストンから医師川瀬九郎帰国日本体育会体操学校において生理学解剖学教授するとともにスウェーデン体操指導奨励にあたり1902年明治35年)には『瑞典教育的体操法』『瑞典体操』を著し本格的な紹介行った。これらの著書アメリカにおける第一人者、ニルス・ポッセとハルトヴィグ・ニッセンの体操書の影響受けており、阿くりのものとは系統異なるもののスウェーデン体操理論的な根拠となった。 しかしスウェーデン体操登場現場混乱をさらに深めた1904年明治37年10月文部省は8名(委員長澤柳政太郎委員高島平三郎川瀬九郎可児徳井口阿くり波多野貞之助坪井玄道三島通良)の体操遊戯取調委員任命し現状分析にあたるとともに、その対策翌年11月体操遊戯調査委員報告」として纏めた。この報告スウェーデン体操大体において採用すべきものとされたが、普通体操を「各個演習」(スウェーデン体操)と「連続演習」(スウェーデン体操従来の普通体操との併用)に分け選択の自由認めたため学校体操統一することは出来なかった。 この年はまた日露戦争開戦の年でもあった。日露戦争それまで文部省帝国陸軍体育教育をめぐる関係を大きく変えた戦争拡大に伴い兵の低年齢化が余儀なくされると、即戦力としてまず身体面で“戦える”青年が必要となった。そこでこれまでの文部省から陸海軍へという流れ逆転し陸海軍文部省対し学生に“実際的な教練を行うよう強く要求したのである。しかし既存兵式体操では効果薄く新し体操構築し早急に全国広めるためには理論実践のみならず思想面でも強固な人物指導されねばならない。そこで文部省選んだ人物永井道明だった。永井1905年明治38年11月3年余の米欧留学出発した

※この「学校体育の情勢と日露戦争」の解説は、「井口阿くり」の解説の一部です。
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