女高師退職とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:28 UTC 版)
阿くりは1909年(明治42年)に宮内省御用掛となって皇女2人に体操の指導をした。同年2月、永井道明が海外留学から帰国し高等師範学校・女子高等師範学校の教授となる。「最新の」スウェーデン体操を本場スウェーデン国立中央体操学校で1年学んだ永井に対し、アメリカから学び言わば「アメリカ流の」体操を教授している阿くりの立場は急速に弱くなってゆく。結局この年の4月に迎えた第4期生を最後に、1911年(明治44年)7月女高師を退職する。後を託したのは着任したばかりの二階堂トクヨだった(二階堂は翌年海外留学を果たすが、帰国後永井との確執が生じる)。 同年同月テニスの観戦中に知り合った藤田積造と結婚。このとき阿くりは41歳、藤田は32歳だった。同年11月積造の仕事によりサンフランシスコに渡るが2年足らずで帰国。1914年(大正3年)には台湾に渡り、積造は台北銀行に就職。阿くりは私立静修女学校の教頭となるがここでも生活が苦しくなり1920年(大正9年)帰国。翌年東京市明治小学校の首席訓導となるが半年で辞職。1922年9月、三井物産欧州総監督だった瀬古孝之助の要望で娘の家庭教師としてロンドンに渡る。ロンドンでの生活は女高師時代以来の快適なものだった。1924年10月帰国。1925年(大正14年)4月から東京高等実習女学校(昭和38年現青蘭学院に吸収合併される)の校長となる。この学校は女高師時代の教え子だった茂木ゲンが、創立準備中の家政女学校を阿くりに献上したものである。1931年(昭和6年)3月26日、学校からの帰宅途中に脳溢血となり逝去。享年61。病気がちだった夫積造は1946年(昭和21年)68歳で亡くなっている。
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