欧化主義から良妻賢母へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:28 UTC 版)
「井口阿くり」の記事における「欧化主義から良妻賢母へ」の解説
師範学校に再入学した1886年(明治19年)から、女子高等師範学校附属高等女学校の助教諭となる1893年(明治26年)までに、学校教育をめぐる情勢は大きく変化した。勤王士族の娘として教育を通じて国に奉職する道を選んだ阿くりは、自分より7、8歳若い女生徒に自分が受けたものとは異なった教育を授けることになる。 1885年(明治18年)12月22日、第1次伊藤内閣が組閣され初代文部大臣には森有礼が就任した。森は列強に伍する国民国家形成のため教育制度改革を矢継ぎ早に実施し、帝国大学を頂点とする階級的な学校制度を確立。さらに師範学校、中学校、小学校の男子生徒には兵式体操と呼称した軍事教練を導入する。これは自由民権運動によって動揺していた国内の治安維持と、帝政ドイツを範とした短期間での軍事力増強を目的とした政策であると同時に、教学聖旨以降元田永孚をはじめとする明治天皇側近によって進められた儒教主義教育に対抗する体育重視の方針を示すものだった。 心身の強化が求められた男子に対し、女子については欧米の婦人論・女子教育論が多数翻訳出版され、その理念や教育制度の受容について活発な議論が起こった。またキリスト教主義女学校が各地に設立されたことで、女子中等教育は欧米志向を中心に展開される。森文相は1886年(明治19年)官立のモデル校として東京高等女学校を新規独立させた。そこでは外国語や芸術教育が重視され、鹿鳴館外交を担う政府高官の夫人の養成、すなわち明治政府が推進する欧化主義を体現した教育が施された。さらに東京高等女学校の旧本校にあたる高等師範学校女子部でも欧化主義教育が取り入れられ、それは1890年(明治23年)まで続く。その講堂では舞踏会が催され、クリスマスには祝賀会が開かれた。
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