性善説
「性善説」とは、人間の本性は善であることを意味する表現。
「性善説」の基本的な意味
「性善説」は、人間は本来善の心を持っているとする説。中国戦国時代の儒学者・思想家である「孟子(もうし)」が唱えた説である。人間は善の端緒を持ち、努力して発展させれば、誰もが善人や聖人になれるとしている。人間は生まれながらにして善の心を持っているが、放っておくと悪になる可能性があるため、善人になるためには努力を惜しんではいけないといった意味だ。「立派な人間になるには努力が大切」といった意味であることから、「人は本来善人だから信用するべき」などの使い方は誤用である。ビジネスにおいては、性善説の間違った解釈である「善人として信頼・信用する」が使われるのが一般的だ。例えば「性善説に基づいて契約する」などは、相手を信頼して不正をおこなわないと信じて取引する、といった意味である。日本では、相手を善人として信用することからビジネスを始める場合が多いが、海外では通用しないとする声も少なくない。外国企業との取引においては、性善説だけでなく「性悪説」も重要だとする企業は多い。
「性善説」の発音・読み方
「性善説」の読み方は「せいぜんせつ」。「性善説」の語源・由来
「性善説」の語源は、中国の儒学者である孟子の言葉とされる。「性」は人間の本性や本質を指し、「善」は善行や道理にかなっているといった意味を持つ。性善説の根本を作っているとされるのが「四端説」である。四端とは、四つの端緒・きざしといった意味で「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四つの感情を指す。「惻隠」は、他者を見て自然と湧き上がるかわいそうや憐みといった心。「羞悪」は、自分や他者の悪行を憎んだり恥じたりする心。「辞譲」は、謙遜やへりくだったりして相手に譲る心。「是非」は、物事について正しいかどうか考えて良し悪しを判断する心。人間は誰にでも「四端の心」が存在し、努力して発展させることで「仁・義・礼・智」の徳に到達するとされている。惻隠は仁の端・羞悪は義の端・辞譲は礼の端・是非は智の端である。人は努力して四端を伸ばすことで、人間が持つ善を発揮でき、誰でも聖人になれる可能性があるといった考え方だ。
「性善説」と「性悪説」の違い
「性悪説」とは、人間の本性は悪であるとする説。中国の思想家である「荀子(じゅんし)」が、孟子の性善説に反対して唱えた説だ。人間の本質は悪であり、善は後天的に作り出した結果であることから、努力次第では悪を克服して善人になれるといった考え方である。性悪説の悪とは、人間は弱い存在であり、煩悩や快楽に流されやすい欠点を持っていること指すため、犯罪や悪事を意味するものではない。性善説が「人間の本性は善である」といった考え方であるのに対し、性悪説は「人間の本性は悪である」とする考え方である。性善説と性悪説は、人間の始まりは善か悪かで主張に違いはあるが、どちらも「努力をしなければ立派な人間になれない」といった考え方は同じだ。性悪説は「努力をして悪を克服して善人になる」といった意味を持つことから、「人は本来悪だから疑うべき」などの使い方は誤用だ。ビジネスにおいては、誤用の意味の「相手は悪人だから不正をおこなう前提として接する」として使われるのが一般的だ。日本国内のビジネスでは、性善説が用いられる場合が多い。
せいぜんせつ 【性善説】
性善説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/02 07:57 UTC 版)
性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は善であり、悪は物欲の心がこの性を覆われることで生ずる後天的なものであると主張する説。孟子が唱えた説。逆に人間の本性を悪とする荀子が唱えた性悪説がある。孟子以後は儒教の中心的思想となった[1][2]。
- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,旺文社世界史事典 三訂版,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “性善説とは” (日本語). コトバンク. 2022年6月2日閲覧。
- ^ “性善説(せいぜんせつ)の意味 - goo国語辞書” (日本語). goo辞書. 2022年6月2日閲覧。
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