選手育成の批判から推進へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:49 UTC 版)
「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「選手育成の批判から推進へ」の解説
トクヨは開塾当初、日本人女性は男性よりも背が低く、体が細く、握力が弱く、肺活量も乏しいことから無闇にスポーツ大会に出場させるべきではないと主張していた。そもそも開塾目的の1つに激しさを増す女子体育の風潮を諫めたいという思いがあり、選手育成のために「醜体」を理想とするような教育にトクヨは我慢ならなくなっていた。トクヨは「選手製造体育」を「甚だ危険なもの」だと警鐘を鳴らした。より単純な説明としては、トクヨが「選手の精神」が気に入らなかったため、アスリートに好感を持っていなかったという。 このため、人見絹枝も入塾当初は良くも悪くもトクヨに目を付けられ、寸暇を見て自主練習に励むほかなかった。人見は夏休みに帰郷して陸上競技の講習会に参加し、学校へ戻ってすぐ高熱を出すと「だから云わないことはないでしょう」と講習会に出たことをトクヨに叱られてしまった。(言葉とは裏腹に、トクヨはこの時付きっ切りで人見を看病した。)しかし、人見が岡山県から県大会出場を要請されたことを知ってトクヨは急展開し、アスリート養成が女子体育発展につながると認識するようになった。されど1925年(大正14年)の時点では、競技(スポーツ)は運動から生まれたものであり、本来の目的は体育であるとし、少数の選手を出すために多くの生徒を犠牲にするのは考えねばならぬことという持論を展開しており、まだアスリート養成には向かっていない。 トクヨが「選手育成の試みをする考へ」を示したのは1927年(昭和2年)になってからである。1933年(昭和8年)には女子スポーツは無害であると熱く語るようになっており、「人見さんが生きてるといいんですがねえ」とこぼした。また18 - 19歳頃の男性がメソメソしているのは男女交際を知らないからであり、朗らかな交際にはスポーツが最適だと、すっかりスポーツ礼賛の姿勢に転換している。スポーツ団体では日本学生陸上競技連合のファンであり、日本陸上競技連盟(陸連)との合併には最後の1人になるまで反対すると述べた。特に陸連が1936年ベルリンオリンピックの選手候補に広橋百合子を選んでおきながら、最終選考で落選させたことに対して選考が不公平だと激怒し、今後一切、陸上競技大会に体専の生徒を補助員として協力させないと宣言した。 人見は著書『女子スポーツを語る』(1931年)の中で、偉大な選手を育成するためにプロのコーチを育成する必要があると説いた。トクヨは1927年(昭和2年)の体専の紹介記事で、卒業生の進路の1つとして「希望に依り選手若しくは『コーチャー』たらしむ」と記載した。コーチ育成のための科目である「女子競技選手指導法」は、他の体操科資格が取得できる学校にはない独自の科目であった。 1936年(昭和11年)には、「人見嬢に続かしめ」る選手を育成するために、体専で特別優遇を行うことを発表した。しかし時代が戦争へと傾斜していく中で、1939年(昭和14年)に優遇策を廃止し、選手育成も中止した。この時、選手の試合出場禁止も言い渡されたが、トクヨの死後である1943年(昭和18年)3月21日に日本学徒体育振興会主催の大学高等専門学校行軍関東大会に体専チームが出場し、優勝したという記録がある。
※この「選手育成の批判から推進へ」の解説は、「日本女子体育専門学校 (旧制)」の解説の一部です。
「選手育成の批判から推進へ」を含む「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事については、「日本女子体育専門学校 (旧制)」の概要を参照ください。
- 選手育成の批判から推進へのページへのリンク