選手組合の闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 03:53 UTC 版)
「1914年のメジャーリーグベースボール」の記事における「選手組合の闘争」の解説
この年はメジャーリーグにとって激動の年となった。一つは後述のフェデラル・リーグの動きであり、前年からアメリカンとナショナル・リーグの両リーグの選手を引き抜く動きが活発となり、両リーグはこれに対し訴訟で応じた。争点は損害の賠償、既得権利の保護、契約違反、選手略奪の規制と禁止であった。この中で重要なポイントは選手の保留権に関する球団の権利への侵害であり、フェデラル・リーグは逆に「シャーマン反トラスト法」(独占禁止法)違反のかどで両リーグを訴えた。 もう一つは選手組合の動きで、このフェデラル・リーグによって生じた混乱を巧みに利用する形で一気に攻勢に出て、選手の待遇に関する要求を17項目に渡って球団経営者に突き付け、1903年に両リーグ会長らで設立されたナショナル・コミッション(全国委員会)はこの時に、そのうちの11項目について実行を約束することとなった。この約束は協定という形で全国委員会委員長でシンシナチ・レッズのオーナーであったオーガスト・ハーマン会長の地元シンシナチで結ばれたため、「シンシナチ協定」と後に呼ばれている。しかし両リーグの球団経営者は球団側にきわめて不利な内容であったため、この協定は守られなかった。しびれを切らした選手組合は7月22日までに選手全員の契約解除を要求し、それが行われない場合はゼネストも辞さないことを通告した。この後に全国委員会ハーマン委員長の仲介で両リーグに協定の忠実な履行を約束させたため事態は収まった。しかし翌年のフェデラル・リーグの解体とともに選手組合も弱体化し、この協定も守られないままに終わり、選手を球団が保有する権利に関する問題はその後第二次大戦後の1970年代まで何ら変わることなく続いた。
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