フェデラル・リーグの動き
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「1915年のメジャーリーグベースボール」の記事における「フェデラル・リーグの動き」の解説
1915年1月にフェデラル・リーグは、アメリカン・リーグとナショナル・リーグの両リーグを「シャーマン反トラスト法」(独占禁止法)で連邦地裁ケネソー・マウンテン・ランディス判事に訴えた。ランディス判事は1907年にスタンダード石油(ロックフェラー財閥)のリベート問題を扱い2924万ドルの罰金を会社側に言い渡したことで当時全米から注目されていた判事であった。ランディス判事は概してフェデラル・リーグ側を支持していた。そして選手の保有権に関する問題についても何らかの判決を下すと見られていた。しかし肝心のフェデラル・リーグの観客数が増えず、全球団が赤字で1915年のシーズンが終了した後に球団オーナーたちがこれ以上争っても意味がないとする意見が広がり、また10月8日にフェデラル・リーグの有力な支援者でブルックリン・ティップトップスのオーナーだったロバート・ウォードが亡くなったことをきっかけに、リーグの存続に疑問を持ち始めていることを見て取ったランディス判事は、突如訴訟の双方に仲介を働きかけ、アメリカン・ナショナルの両リーグがフェデラル・リーグを吸収できるように和解をすすめた。 その結果、1915年12月15日にシンシナチにアメリカン・ナショナルの両リーグとフェデラル・リーグ、マイナーリーグのインターナショナル・リーグとアメリカン・アソシエーションの代表が集まり、 ナショナル・リーグはシカゴ・カブスを、アメリカン・リーグはセントルイス・ブラウンズを、それぞれ同じ都市に球団を持つフェデラル・リーグのオーナーに譲渡する。(これはシカゴ・カブスがシカゴ・ホエールズを、セントルイス・ブラウンズがセントルイス・テリアズを吸収合併させて、その球団を元のフェデラル・リーグ側のオーナーに譲渡することである。ただしシカゴはその通りになったが、セントルイス・ブラウンズは譲渡を拒否して、フェデラル・リーグ側のオーナーが訴訟を起こした) フェデラル・リーグに走った選手は、全て野球機構の中の球団に元通り復帰させる。(元の球団がアメリカンやナショナルリーグでなく、マイナーのインターナショナル・リーグやアメリカン・アソシエーションの選手はそのリーグの球団に戻す) フェデラル・リーグのシカゴ・ホエールズとセントルイス・テリアズ両球団の選手を除く、他の全てのフェデラル・リーグに所属する選手は競売に付される。 などを内容とした協定を結んだ。そしてフェデラル・リーグ側は野球機構や両リーグを相手に起こした訴訟に関してことごとく取り下げた。(ただし前述のセントルイスの譲渡に関する件とボルチモアが「反トラスト法」違反で野球機構に当時90万ドルの損害賠償を要求した件はその後1922年まで続いた)これによって2年間に及ぶフェデラル・リーグ設立に伴う騒動は収まった。 なお一時はフェデラル・リーグ側に有利な姿勢を見せたランディス判事だったが、この時に両リーグがフェデラル・リーグを吸収させて両者の和解を促進させた彼の鮮やかな手腕は、メジャーリーグの役員に深い印象を残した。そしてこのことで、5年後に球界を揺るがすブラックソックス事件が起こった時に、メジャーリーグは彼の手腕に期待して、この大事件の処理を一任することとなる。
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