ケネソー・マウンテン・ランディス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/03 14:25 UTC 版)
ケネソー・マウンテン・ランディス Kenesaw Mountain Landis |
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ケネソー・マウンテン・ランディス
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生年月日 | 1866年11月20日 |
出生地 | ![]() |
没年月日 | 1944年11月25日(78歳没) |
死没地 | ![]() |
埋葬地 | ![]() |
配偶者 | ウィニフレッド・リード |
子女 | リード、スーザン、ウィニフレッド |
国籍 | ![]() |
出身校 | シンシナティ大学 ユニオン・カレッジ・オブ・ロー |
署名 | ![]() |
連邦地方裁判所
イリノイ州北部地区裁判所判事 |
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任期 | 1905年3月18日 - 1922年2月28日 |
任命者 | セオドア・ルーズベルト |
前任者 | クリスチャン・セシル・コルサート |
後任者 | ジェームズ・ハーバート・ウィルカーソン |
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任期 | 1920年11月12日 - 1944年11月25日 |
前任者 | 新設 |
後任者 | A・B・チャンドラー |
ケネソー・マウンテン・ランディス(英語: Kenesaw Mountain Landis、1866年11月20日 - 1944年11月25日)は、アメリカ合衆国の裁判官。イリノイ州連邦地裁判事、MLBの初代コミッショナーを務めた。
生涯
オハイオ州ミルビルで生まれ、インディアナ州ローガンズポートで育つ。名前は父エイブラハムが参戦して負傷したケネソー山の戦いにちなむ。
シンシナティ大学とユニオン・カレッジ・オブ・ローで法学を学び、学位取得後の1891年にシカゴで法律の実務に携わり始めた。1905年にセオドア・ルーズベルト大統領から連邦地方裁判所イリノイ州北部地区裁判所判事に任命され、1907年のスタンダード・オイルに対する反トラスト訴訟では重要な判決を下した。
シカゴ・ホワイトソックスの選手たちが1919年のワールドシリーズで八百長を働いたとされるブラックソックス事件が発生すると、MLBはイメージダウンによる大打撃を受けた。MLBはそれまでのナショナル・コミッションの3名が統治を行う形から、権威ある単独のコミッショナーを導入し、ランディスを初代コミッショナーに迎え入れた。
ランディスは事件に対処し、ブラックソックス事件に関わった8人の選手を永久追放とする裁定を下した。また、これ以外にも、オーナーたちの不正行為などを指弾し厳しく処分するなどの姿勢をとったことから、球界の最高権力者として振舞うというコミッショナーのイメージを定着させることになった。
またランディスは保守派としての顔もうかがえ、在任中に起きた、ブランチ・リッキーが展開したファーム・システムには批判的だった。これには若い才能ある選手たちがファーム・システムによって球団に拘束され、却ってビッグ・リーグで活躍する機会を失ってしまうという考えだったという。他にもニグロリーグの優秀な黒人プレーヤーへのメジャーリーグへの門戸を開くことは拒否的で、「ニグロリーグというのがあるのだから、別に入れなくてもいいのではないか」と言うほどだが、当時ランディスの周囲にも黒人選手がメジャーリーグでプレーすることに反対する球界関係者(キャップ・アンソンらが代表)が多かったのも確かである。
1944年、勤務先のコミッショナー事務局で、自らのデスクで勤務中に急死した。ランディスの死後、1947年にジャッキー・ロビンソンがデビューするなど、メジャーリーグは黒人を始めとする有色人種に対する門戸を徐々に開くようになるが、これはランディスの死と無関係ではないと指摘する者もいる[1]。
参照
- ^ 芝山幹郎. “ステロイドと殿堂。~野球の名誉を汚した男たち~”. Number Web. 2013年1月13日閲覧。
外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- A Brief Biography
- Lyrics to 'Kenesaw Mountain Landis' by ジョナサン・コウルトン
司法職 | ||
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先代 クリスチャン・セシル・コルサート |
連邦地方裁判所 イリノイ州北部地区裁判所判事 1905年 - 1922年 |
次代 ジェームズ・ハーバート・ウィルカーソン |
タイトル | ||
先代 (新設) |
MLBコミッショナー 1920年 - 1944年 |
次代 ハッピー・チャンドラー |
ケネソー・マウンテン・ランディス
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「MLBコミッショナー」の記事における「ケネソー・マウンテン・ランディス」の解説
詳細は「en:Kenesaw Mountain Landis」を参照 シカゴ・ホワイトソックスの選手たちが1919年のワールドシリーズで八百長を働いたとされるブラックソックス事件が明らかになり、メジャーリーグベースボール(MLB)はイメージ低下による改革の必要性に迫られた。改革委員会の委員長として野球と利害関係を持たない非野球関係者であり、熱烈な野球ファンとしても知られていた連邦地方裁判所判事のケネソー・マウンテン・ランディスを迎え入れた。ランディスは「野球界全体に及ぶほぼ無制限の絶対的な権限を自分に与えてくれるなら」という条件で引き受けた。オーナー達はこの要求を受け入れた。それまでの3人が共同統治を行う形から権威ある単独のコミッショナーへ移行した。事件に関わったホワイトソックスの選手8人は1921年8月2日に裁判で無罪の判決が下りた。しかし、ランディスはホワイトソックスの選手8人を含む15人全員を永久追放処分とすることを決定した。ランディスは声明で「判決に関係なく試合を放棄、計画するような選手は、誰であろうとプロ野球でプレーすることは許されない」と決然とした態度で臨んだ。 彼の任期中にはブラックソックス事件の関係者以外にも、チームメイトに八百長を持ち掛けたハル・チェイスとヘイニー・ジマーマン、賭博師と繋がりがあったジーン・ポーレット、他チームの選手に八百長をしないかと持ち掛けたジミー・オコンネルとそれをけしかけたコジー・ドラン(コーチ)、野球の試合を賭博に利用したウィリアム・コックス(オーナー)、試合を投げ出したいと他チーム選手へ手紙を送ったフィル・ダグラス、盗難車販売の告発を受けたベニー・カウフと数多く永久追放された。 時には慎重な姿勢も見せたために、ランディスに次ぐ権力を持ち、不正の追及に積極的だったアメリカンリーグ会長のバン・ジョンソンとは対立することも多かった。1926年にデトロイト・タイガースのタイ・カッブ、クリーブランド・インディアンスのトリス・スピーカー両監督が八百長試合を取り決め、行った疑惑が浮上した際には2人は潔白だとの考えを示した。オーナーたちからの支持を取り付け、カッブとスピーカーを告発したジョンソン会長から権力を奪うことに成功している。 ニグロリーグの黒人選手への門戸を開くことには否定的だった。ランディスは亡くなる1944年までコミッショナーを続けた。命令は絶対であり、「野球暴君」として恐れられた。彼の功績を称え、MVPの正式名称は「ケネソー・マウンテン・ランディス賞」と呼ばれている。
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固有名詞の分類
アメリカ野球殿堂 |
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