ラリー・マクフェイル
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ラリー・マクフェイル(Leland Stanford "Larry" MacPhail Sr., 1890年2月3日 - 1975年10月1日)は、メジャーリーグの球団経営者。ミシガン州キャスシティ生まれ。1930年代のレッズ、ドジャーズの再建に寄与し、第二次世界大戦後はニューヨーク・ヤンキースのオーナーとなった。
- 1 ラリー・マクフェイルとは
- 2 ラリー・マクフェイルの概要
ラリー・マクフェイル
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「1947年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ラリー・マクフェイル」の解説
この年のワールドシリーズ終了後のニューヨーク・ヤンキースの祝勝会でオーナーのラリー・マクフェイルが泥酔して手当たり次第に関係者を罵倒する一幕があり、マクフェイルは翌日にヤンキースのオーナーを退いた。ブランチ・リッキーの友人でもあったマクフェイルは、1933年にシンシナチ・レッズのGMに就任すると、ラジオの専属アナウンサーを起用し、1935年にメジャーリーグ史上初のナイトゲームを行いその後の野球を夜間中心の試合興行に変え、その後レッズのオーナーと衝突して暴力沙汰となってレッズを追われ、ドジャースの球団副社長となり、ドジャー・ブルーと呼ばれたユニフォームを新調したりベーブ・ルースをコーチに招いたりして、観客数を20万人以上増やして70万ドルあった球団の負債をわずか3年で解消させた。しかしレオ・ドローチャー監督とは衝突を繰り返し、後にドローチャーは「マクフェイルから66回クビだと言われた」と述懐している。第二次大戦で兵役に就くためドジャースを退き、戦後すぐにヤンキースの身売りを知ると共同オーナーとなり、球団社長とGMを兼任した。60万ドルを投資してヤンキースタジアムに夜間照明設備を整え、ラウンジ・クラブハウス・プレスボックスを改善し、キャンプ地を建設し、初めて航空会社と契約して飛行機をチャーターして選手移動を行い、レッズ、ドジャース、ヤンキースの3球団を立て直したその手腕は高く評価されている。しかしもともとアル中であったことで引き際を誤って球界から去ってしまった。彼は野球を大衆社会の娯楽産業に引き上げた第一人者であり、この後に10数年にわたってヤンキース王国は黄金時代を迎えた。1978年に殿堂入りした。息子のリー・マクフェイルも球団経営に携わり後にアメリカンリーグ会長となった。そして孫のアンディ・マクフェイルもフィラデルフィア・フィリーズの球団社長になっている。
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ラリー・マクフェイル
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「1945年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ラリー・マクフェイル」の解説
1945年の秋に、ニューヨーク・ヤンキースが身売りされて、買ったのはラリー・マクフェイルとダン・トッピング及びデル・ウェッブであった。 ラリー・マクフェイルを球界に引き入れたのは彼の大学時代の旧友ブランチ・リッキーであった。リッキーがカージナルスのGMの時にカージナルスのマイナー球団を経営し、1933年にシンシナティ・レッズのGMに就任すると低迷する観客動員を改善するためにナイトゲームの開催をメジャーリーグ初で行い、選手の移動に初めて飛行機を使用したり、専属アナウンサーを置いたのも彼であった。1938年にはブルックリン・ドジャーズに移ったが、ドジャースのユニフォームを「ドジャーブルー」に新調したりベーブ・ルースをコーチとして招聘するなどして観客動員を20万人以上増やし、ドジャースを強豪チームに変身させて70万ドルあった球団の負債を3年で返済した。1942年には第二次世界大戦で陸軍に入隊し、その間にドジャーズはブランチ・リッキーに経営の実権が移った。リッキーはランディスの死去とともに黒人選手の採用を検討し始めていた。 そして兵役から戻ってヤンキースの共同オーナー兼GMに就任したマクフェイルは、すぐに60万ドルを投資してヤンキースタジアムに照明設備を付け(ドジャース時代もエベッツ・フィールドに照明設備を付けた)、シーズン予約席の購入者、選手、新聞記者のためのラウンジ、クラブハウス、プレスボックスを改善し、またレディス・デーにはファッションショーを主催してナイロンの靴下を無料で配布し、球団事務所を五番街に設け、キャンプ地もセントピーターズパークとブラデントンに増設し、鉄道のストライキで選手の移動に支障が生じた時は即座に航空会社に1年契約で44人乗り飛行機をチャーターする手際の良さを示した。この彼の努力がやがて戦後も続くヤンキース王国の礎となり、黄金時代が再来することとなった。ラリー・マクフェイルはそのキレやすい性格で衝突を繰り返し、1947年にヤンキースの優勝祝賀会で泥酔したことでヤンキースを去った。しかしトラブルメーカーで各球団を短期間で渡り歩いた人間だが、球界に変革をもたらした才人として、レッズ・ドジャース・ヤンキースの3球団を財政的にもグラウンドの上でも大成功に導いた人間でもあった。彼は野球を単なるスポーツ企業から大衆社会の娯楽産業へと引き上げた。
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