ラリー・マクフェイルとは? わかりやすく解説

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ラリー・マクフェイル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/14 21:57 UTC 版)

リーランド・スタンフォード・"ラリー"・マクフェイル・シニアLeland Stanford "Larry" MacPhail Sr., 1890年2月3日 - 1975年10月1日)は、メジャーリーグの球団経営者。ミシガン州キャスシティ生まれ。1930年代のレッズ、ドジャーズの再建に寄与し、第二次世界大戦後はニューヨーク・ヤンキースのオーナーとなった。

来歴・人物

マクフェイルは1934年からシンシナティ・レッズの経営に加わり、ナイトゲームの導入などによる観客数の増加策を打つ。レッズの経営に関わったのは1936年までで、1938年にはブルックリン・ドジャーズに移っていたが、後にレッズは1939年、1940年とリーグを制覇、マクフェイルはその基礎を築いたとされる。

1938年からのドジャーズの運営では、初年度にベーブ・ルースをコーチに招くなどの策を取り、ドジャーズを1920年以来の黒字に導く。マクフェイルが経営に加わって以後、ドジャーズは1957年までの20年間で7度リーグを制覇するナショナルリーグの強豪チームとなった。1941年、ドジャーズは21年ぶりのリーグ制覇を遂げるが、その優勝の歓喜の中、当時の監督のレオ・ドローチャーが選手たちを船に乗せて移動していることを知らなかったマクフェイルは、てっきりチームが電車に乗ってグランドセントラル駅に降り立つものと思い、結局駅のプラットフォームで置き去りの格好になってしまう。マクフェイルはこの件で凄まじく怒り、ドローチャーに解雇を言い渡した。しかしドローチャーはマクフェイルが翌年徴兵されたこともあり、その後も引き続きドジャーズの監督を務めている。

1942年にマクフェイルは第二次世界大戦で陸軍に従軍、その間にドジャーズは彼の友人であったブランチ・リッキーに経営の実権が移っていった。戦後ニューヨーク・ヤンキースの経営に加わるが、1947年、ヤンキースがドジャーズに勝利したワールドシリーズの祝勝会でマクフェイルは泥酔して暴れ、記者を殴りつけ、自分は経営者を辞任すると宣言する。翌日、共同経営者だったトッピングとウェッブが彼から球団経営権を買い取る形で、マクフェイルはヤンキースの経営からも退いた。

1975年にフロリダ州マイアミで85歳で亡くなる。1978年アメリカ野球殿堂入り。息子のリー・マクフェイルは後にアメリカンリーグの会長職を務め、1998年に親子での野球殿堂入りを果たしている。

出典・外部リンク


ラリー・マクフェイル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:21 UTC 版)

1947年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ラリー・マクフェイル」の解説

この年ワールドシリーズ終了後ニューヨーク・ヤンキース祝勝会オーナーのラリー・マクフェイルが泥酔して手当たり次第関係者罵倒する一幕があり、マクフェイルは翌日ヤンキースオーナー退いたブランチ・リッキー友人でもあったマクフェイルは、1933年シンシナチ・レッズGMに就任すると、ラジオ専属アナウンサー起用し1935年メジャーリーグ史上初のナイトゲーム行いその後野球夜間中心試合興行変えその後レッズオーナー衝突して暴力沙汰となってレッズ追われドジャース球団副社長となり、ドジャー・ブルー呼ばれたユニフォーム新調したベーブ・ルースコーチ招いたりして、観客数20万人以上増やして70ドルあった球団負債をわずか3年解消させた。しかしレオ・ドローチャー監督とは衝突繰り返し、後にドローチャーは「マクフェイルから66クビと言われた」と述懐している。第二次大戦兵役に就くためドジャース退き戦後すぐにヤンキース身売りを知ると共同オーナーとなり、球団社長GM兼任した60ドル投資してヤンキースタジアム夜間照明設備整え、ラウンジ・クラブハウス・プレスボックスを改善しキャンプ地建設し初め航空会社契約して飛行機チャーターして選手移動行いレッズドジャースヤンキースの3球団立て直したその手腕は高く評価されている。しかしもともとアル中であったことで引き際誤って球界から去ってしまった。彼は野球大衆社会娯楽産業引き上げた第一人者であり、この後10数年わたってヤンキース王国黄金時代迎えた1978年殿堂入りした。息子リー・マクフェイル球団経営携わり後にアメリカンリーグ会長となった。そして孫のアンディ・マクフェイルフィラデルフィア・フィリーズ球団社長になっている

※この「ラリー・マクフェイル」の解説は、「1947年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「ラリー・マクフェイル」を含む「1947年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1947年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。

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