キリスト教導入後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 08:11 UTC 版)
「ウラジーミル1世」の記事における「キリスト教導入後」の解説
988年にはキリスト教を国教として導入、加えて東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚し、キエフ大公国の権威を上昇させると共に、当時最先端であったビザンツ文化を取り入れるなど、優れた手腕を見せた。ウラジーミルは12人の息子をキエフ大公国の各地に封じて土着の勢力を抑えた。近隣との関係はおおむね平穏であったが、南方ステップ地帯の遊牧民であるペチェネグ人には悩まされた。アンナの死後、ウラジーミルは再婚した。相手はオットー1世の孫娘のひとりであったとする説がある。晩年には、ノヴゴロド公に任じていた息子ヤロスラフ1世がキエフへの貢税2000グリヴナ の支払いを停止したため対立し、これを討つための準備中にキエフ近郊のベレストヴォで死去した(1015年)。 ウラジーミルの遺体は、分割され、彼が建てたさまざまな教会に送られて不朽体(聖遺物)として崇敬を受けた。キエフの最も大きな大聖堂のひとつ(聖ヴォロディームィル大聖堂)がウラジーミルに捧げられた。ウラジーミルへの崇敬はルーシの伝統となった。19世紀にはウクライナにおけるキエフ大学の正式名称は、キエフ・ルーシに文明とキリスト教をもたらした人物としてウラジーミルの名称を冠している。ロシア帝国では聖ウラジーミル勲章が設けられた。ウラジーミルは正教会から13世紀に列聖され、カトリック教会でも聖人として崇敬されている。政治・軍事ともに大きな成果を収めたウラジーミル1世の功績は、民族叙事詩である「ブィリーナ」で、また修道士ヤコフ・ムニフの『頌詞』のなかで賞賛されている。彼と共に、東スラブにおけるヴァリャーグ人時代は終わり、キリスト教時代が始まった。
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