政治的要因
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この時期に帝国主義が強まった理由としては、さまざまな説明がなされてきた。政治面からの説明としては、ナショナリズムの発展によって国民国家化したヨーロッパ列強諸国が、国家の威信を上げ民族としての自尊心を満たすために拡張主義を取ったということが言える。フランスでは特にこういった面が顕著であり、フランス第三共和政の政府は1871年の普仏戦争の敗北の傷を癒やし、国家の威信を高めるために積極的な海外進出を行っていった。ドイツやイタリアといった、いわゆる「遅れてきた」列強も、自国の充実した国力の証明としての対外進出と植民地獲得を目指していた。これとは全く逆に、ポルトガルは自国の国力の衰退に直面し、国力の健在ぶりと威信を示すよすがとしての植民地の維持に強く執着した。このような進出は1870年代以前に基礎が成立しており、これ以前に各地に足場を築いていたイギリスとフランスが植民地分割の主役となった。この時期に統一を成し遂げたイタリアやドイツは植民地分割競争においては後塵を拝せざるを得ず、英仏の進出していなかった植民地的価値の少ないエリアへと進出することとなった。 こうした列強のナショナリズムは、しばしばそれまでも存在していたヨーロッパ的な「人道主義」、すなわち非ヨーロッパ人へのキリスト教の布教と、ヨーロッパ文明を伝えることで現地の「遅れた」人々を「教化」する動きと、容易に結びついた。こうした動きは古くから連綿と続いていたのだが、帝国主義期に入ると動きの遅さや頓挫から、尖兵となっていた宣教師の一部からは抵抗を続ける現地政府を祖国の世俗政府によって打倒し、より教化を行いやすい環境とすることを歓迎する風潮が現れ始めた。またこの時期にはプロテスタントだけでなく、一時布教の動きをやめていたカトリックがふたたび積極的な布教を開始した。すでにヨーロッパ主要国が廃止していた奴隷制への反対運動も、いまだ活発な奴隷貿易が続くアフリカ大陸奥地をターゲットとして継続しており、奴隷貿易の廃止は現地政府へのヨーロッパ諸国の介入の主な名目のひとつとなっていた。また非ヨーロッパ人へのヨーロッパ文明の「教化」の動きは、現地住民とのさまざまな齟齬(ヨーロッパ文明のうち、現地住民が優越性を認め取り入れようとしたものは物質的な進歩中心にわずかな分野に限られた)と西洋化の遅れによって変質していき、ヨーロッパ人の文明的な「優越性」を現地住民が完全に理解し同化することは不可能であるとする人種差別的な認識に傾いていった。 アフリカにおいては、奥地の探検が帝国主義的進出と直結することも珍しくなかった。特に1870年代以降、政府に委託を受けた探検家が現地の首長と条約を締結し、その地を植民地へと組み込むことが広く行われた。1878年にはヘンリー・モートン・スタンリーがベルギー国王のレオポルド2世に委託を受けてコンゴ川流域を探検し、各地で貿易協定を結んで、これは1885年のコンゴ自由国の成立へとつながっていった。同時期、フランスのピエール・ブラザもコンゴ川流域の探検を行っていて、彼の探検した地域はフランス領コンゴへとつながっていった。
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政治的要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:17 UTC 版)
とくに19世紀後半においては、国家の威信そのものが植民地主義の重要な動機となった。ナショナリズムの発展によって国民国家化したヨーロッパ列強諸国は、民族としての自尊心を満たすために植民地を必要としていた。上記の技術的要因によって、植民地を獲得するコストが他の列強と欧州で戦争を起こすコストよりもはるかに低くなっていたことも政治的理由での植民地獲得を推進する理由となった。こうした理由での植民地獲得においてとくに重要なのがフランスで、1871年の普仏戦争の敗北の傷を癒やし、国家の威信を高めるためにフランス第三共和政の政府は積極的な海外進出を行っていった。ドイツやイタリアといった、いわゆる「遅れてきた」列強も、こうした自国の充実した国力の証明としての植民地獲得を目指していた。それは19世紀後半以後に、近代国家としての道を歩みだした日本もまた同様であった。これとは全く逆に、ポルトガルは自国の国力の衰退に直面し、国力の健在ぶりと威信を示すよすがとしての植民地の維持に強く執着した。
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政治的要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:08 UTC 版)
上都はクビライが根拠地として建造した都市で、中国を占領して大都に遷都した後も副都として重要な位置を占めていた。が、食料や物資などが自給自足できず外からの輸入に依存していた上に、水路がなく、交通や物資輸送が不便だったことから、元が崩壊して明に移り変わると放棄され、原野へと戻っていった。
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