政治的背景を持った人道活動家
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「ベルナール・クシュネル」の記事における「政治的背景を持った人道活動家」の解説
南東部アヴィニョン生まれ。ユダヤ人の父とプロテスタントの母を持つ。父方の祖父は1908年にラトビアからフランスへ移住した。社会活動家として1960年代初めにフランス共産党に入党、のち社会党、左派急進党を経て、現在は社会党に復帰している。エマウス運動創設者のピエール神父との共著による『神と人間(Dieu et les hommes)』をはじめ、数冊の著書がある。最初の妻は法学教授のエヴリン・ピジェ(フランス語版)(女優マリー=フランス・ピジェの姉)、現在はベルギー人ジャーナリストのクリスティーヌ・オクラン(フランス語版)と再婚。子供は最初の妻との間に3人、再婚の妻との間に一人。 1968年5月の第5共和国革命時にはパリ大学医学部のストライキ委員会の幹部であった。その後、フランス医療救援団と共にビアフラで活動し、この団体が1971年、『国境なき医師団(Médecins sans frontières)』と変革するのにあたって貢献をした。エマニュエル・ダスティエと共に『Événement』誌の発刊に参加した後、1970年代を通して『Actuel』誌に定期的に協力する。1979年に、国境なき医師団の指導者グループ内でクロード・マルレと対立して国境なき医師団を離脱、『世界の医療団(Médecins du monde)』を創設した。徐々に現場レポーターのような活動をするようになり、次第にメディア、特にテレビのニュース番組への登場が増えて批判されるようになり、特に1992年12月のソマリアでの人道活動については厳しく批判された。 1987年に「介入の権利(フランス語版)」Le droit d'ingérenceの執筆で知られる法学者のマリオ・ベタッティ(フランス語版)との共著「介入義務」Le devoir d'ingérenceで国際機関の人道的介入を主張し、1988年には国家書記官としてフランス政府に入閣、1992年から1993年にかけて保健・人道活動大臣を務めた。
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