概念史
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概念史(ドイツ語: begriffsgeschichte、英語: conceptual history、history of concepts)は、概念の歴史。主にドイツ語圏で発達した歴史学の分野である。
沿革
起源
ドイツ語の「begriffsgeschichte」という言葉が初めて登場するのは、ヘーゲルの歴史哲学講義の中である。この表現がヘーゲル自身による造語なのか、講義録を書いたときに生まれたものなのかは定かではない。これによると、ヘーゲルは、美術・法・宗教の歴史として、哲学の歴史に合流する、いわゆる「reflektierten Geschichte」の一種を「begriffsgeschichte」として指定した。この理解は、孤立の例にとどまり、定着しなかった。
媒体及び代表的人物
概念史は、20世紀に『Historischen Wörterbuchs der Philosophie』、『Geschichtliche Grundbegriffe』、『Archiv für Begriffsgeschichte』等が出版され、特に盛り上がりを見せた。哲学者のヨアヒム・リッター、歴史学者のラインハルト・コゼレック、社会学者のエーリッヒ・ロタッカーは、この分野の重要な代表者である。また、ハンス・ゲオルク・ガダマーは、概念-歴史パラダイム(begriffsgeschichtlichen Paradigmas)の枠組みの中で、哲学的な解釈学を明確にした[1]。歴史的意味論は、従来の思想史に対して、一般的な「Ideen」の歴史的非連続性、社会的文脈、言語的構成要素を軽視しているとの非難に応えた[2]。
批判
しかし、概念史のアプローチは、以下の引用が示すように、批判的な見方もあった。
- フレーゲ「概念はそれ自体で歴史的なものではないため、概念の歴史はありえない」("Begriffe seien an und für sich nicht geschichtlich, und daher könne es keine Begriffsgeschichte geben")
- ハンス・クリスチャン・レール「歴史的考察は内容分析に代えられない」("historische Betrachtungen seien kein Ersatz für inhaltliche Analyse")
脚注
- ^ Vgl. Hannes Kerber: Der Begriff der Problemgeschichte und das Problem der Begriffsgeschichte. Gadamers vergessene Kritik am Historismus Nicolai Hartmanns, in: International Yearbook for Hermeneutics 15 (2016), 294–314.
- ^ Vgl. etwa Bevir / Bödeker 2002, 9ff. K. Palonen: Begriffsgeschichte und/als Politikwissenschaft, in: Archiv für Begriffsgeschichte 44 (2002), 221–234.
関連項目
外部リンク
概念史
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「ザウアーラント」という概念は、立会人 Wesselo de Suderlande の添え名として、1266年に初めて記録されている。その後この名称は、少し変形した形でアルンスベルク、シュトラールズント、グライフスヴァルト、ケルン、ゾースト、リューベック、ロンドン、ヴロツワフ、ロストック、リガ、グダニスク、カッセル、エッセンの記録に産地表示として登場する。14世紀以降この概念は土地の場所を詳しく記述するのに用いられた。 ヴェストファーレンの住民の間では、13世紀から母音の間の d が省略されるようになった。このため、Suderlande は次第に Suerland に変化した。ただし社会的に高い地位にある人々の間では d が保持されていた。したがって、法律関連の事務所や書記室が作成した文書は d を含むスペルで記されている。おそらくオランダからの影響で、北海沿岸に広まった sud を süd と綴る書式が適用され、Süderland という書き方が増えていった。16世紀末頃に中低ドイツ語(ドイツ語版、英語版)は書き言葉としての重要性を失い、高地ドイツ語が優勢となった。これにより Suerland の表記が高地ドイツ語化された。長い母音の u は au へ二重母音化し、これにより Sauerland という書き方ができあがった。 地域名としてのザウアーラントの起源は、領邦以前の時代に遡り、おそらく12世紀に成立していた。中世後期にはレネ川中下流域南北の地域を指していたが、近世初期にハール川およびヘルヴェークの南に位置する南ヴェストファーレンの山地でジーガーラントとヴィトゲンシュタイン地方を除く地域を意味するようになった。この地域の領邦は、プロテスタントのマルク伯領とカトリックのヴェストファーレン公領に分かれていた。この2つの領邦はともに、ザウアーラント以外の土地も領邦に含んでいた。17世紀から18世紀にはヴェストファーレン、特にザウアーラントに対して、良くない評判が増えていった。特にケルン選帝侯領のザウアーラントは、後進的で貧しい土地とみなされていた。19世紀になるとこうした連想はされなくなっていった。工業的に発展したメルキシェス・ザウアーラント(旧メルク伯領側のザウアーラント)では、ジューダーラント (Süderland) という表記が好まれるようになった。 ザウアーラントのイメージはロマン主義の時代になって変化した。アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフの影響を受けたレーヴィーン・シュッキング(ドイツ語版、英語版)が著した「旅の本」はザウアーラントをポジティブに評価した最初の著作であった。それにもかかわらずこの書物は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・グリンメにザウアーラントを擁護する文書を執筆する気にさせたのであった。グリムの著述はザウアーラントのイメージに決定的な影響を与えた。カール・クネーブッシュのガイドブックや、19世紀末から標識のある遊歩道網を整備したザウアーラント山岳協会の設立により、観光開発が進められた。その結果ザウアーラントの概念が拡張された。メルキシェス・ザウアーラントという表記が再び一般的になり、さらにハールシュトラングやウプラントにまで拡張された。 地名の意味に関して、19世紀に語源論争が起こった。語源について多くの説明がなされ、2つの派閥が形成された。1つは様々な派生語を考慮して「南の国」と解釈するもので、もう1つは低地ドイツ語の名前の形式を参照して「やっかいな国」解釈するものであった。この論争は感情的となり、選帝侯領部分とマルク伯領部分のどちらが「真正な」ザウアーラントであるかという問いと結びついた。現在では語源学上「南の国」が定説となっている。これは、ヴェストファーレンの中心であるドルトムント、ゾースト、ミュンスターの南に位置する地方という意味であると推測される。 この地域を特徴付ける固有の境界がなく、ザウアーラントという概念自体歴史の上で常に変遷してきたにもかかわらず、ザウアーラントという地域の輪郭を描き出そうとする努力が現在も続けられている。こうした境界付けには、ザウアーラントが文化的あるいは自然環境的な一体感を欠いているという問題が常にある。地質学的には、ライン・シーファー山地の一部である南ベルクラントに属すが、文化的にはメルキッシャー部分(旧メルク伯領部分)とクールケルニッシャー部分(旧ヴェストファーレン公領部分)とに分けられる。一般に、現在のホーホザウアーラント郡、メルキッシャー郡、オルペ郡にあたる地域がザウアーラントの中核となる地域であるが、境界領域は場合により異なっている。
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