歴史解釈
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「イギリスのチベット遠征」の記事における「歴史解釈」の解説
中国の歴史家たちは、チベット人がチベット政府ではなく清政府に対して忠誠を誓っていたという前提の上で、彼らがイギリス人に英雄的に立ち向かったと考えている。またイギリス軍が略奪と放火を繰り広げたことを強調し、彼らの貿易関係を樹立しようという試みの真の目的はチベットの併合であり、究極的には中国全土の併合の足掛かりにしようとしていたのだ、と主張されている。またチベット人はイギリス軍を粉砕し、ヤングハズバンドはわずかな随員を引き連れて逃げ帰ったのだ、としている。中国政府はギャンツェ・ゾンを、イギリスへの抵抗を記念する博物館に改修し、上記のような歴史観や、「祖国」を「熱烈に愛する」チベット人農奴の、過酷な生活を耐え忍ぶ姿などが展示されている。また中国では、イギリスのチベット遠征は、西洋や日本の列強が中国を侵略し、それに中国人が抵抗した「百年国恥」の中の一大事件とみなしている。一方でチベット人の中には、イギリス遠征隊に対する抵抗はチベット人の自衛行為であり、清朝からの独立を目指した運動の一端であったとみなしている者も多い。 一方でチベット人の間では、この戦争は凋落し分裂しつつある清からチベットが独立する過程の中で経験した自己防衛戦争であるという見方が強く、中国に対してはむしろ後の1905年に行われた苛烈なチベット人弾圧による反感と侮蔑の念がある。 イギリスの歴史家チャールズ・アレンはこうした議論の中で、ヤングハズバンドが「チベットとその民に対してかなりの物的損害」を与えたことを遺憾であるとしたうえで、このことは「1951年の中国人民解放軍によるチベット侵攻と、1966年から1967年のジェノサイド的な文化大革命」と比べれば、取るに足らないものだったと主張している。
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歴史解釈
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新左翼史観も基本的には八切の歴史解釈を援用しているため、個々の歴史的出来事に関する解釈は両者ともあまり差異はない。新左翼史観の特異点は、八切流歴史解釈を反日亡国論を理論付ける政治的イデオロギーとして活用しているところにある。そのため八切流歴史解釈が新左翼史観に合わない場合、意図的に無視したり、改変したりしている。 アイヌ民族の出自 八切史観ではアイヌ民族を太古から北海道にのみ居住する民族とし、「日本原住民」とは別の扱いにしている。しかし新左翼史観ではアイヌ民族も「日本原住民」を構成する民族とし、アイヌ民族を「奴隷化」した「日本の悪行」を糾弾する根拠としている。 皇室の出自 日本の皇室が君主として歴史に登場した年代については両者の見解に差があるが、皇室の出自は「日本原住民」から出たのではなく、騎馬民族征服王朝説に基づき、大陸からの渡来人出身としているのは両者とも共通している。これを理由に、新左翼は天皇の君主としての正統性を否定する根拠としている。 藤原氏の出自と律令制 「白村江の戦いで倭国は敗れ、郭務悰率いる唐軍の進駐を許す破目になった。唐軍は大海人を担いで傀儡政権を樹立、旧支配層を一掃した。これが壬申の乱である。「進駐軍」はそのまま居座り続け、「傀儡政権」の支配層として君臨することになった。彼らは「公家」と自称した。藤原氏の出自は「唐進駐軍」の司令官に他ならない。藤原氏はこれらの事実を隠蔽するために、彼らの本来の母語である中国語(漢文)で「日本書紀」を編纂し、歴史を歪曲した。そして「宗主国」唐の律令制を直輸入し、急速に中国化を進めていった。」という解釈をしている。「そもそも日本書紀は純粋な漢文で書かれていない」「唐軍が日本に来た形跡がない」など、多くの矛盾があり、自分たちを正当化するための方便にすぎない。
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