講和条約の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:55 UTC 版)
負傷した李鴻章に代わって李経方参議が欽差全権大臣となった。4月1日、陸奥全権は中田敬義外相秘書官を通じて李経方に対し講和条約の草案を提示し、1週間後の4月8日までの回答を求めた(第4回会談)。 日本側が清国に示した条件とは、 清国において朝鮮の完全無欠なる独立国であることを確認すること 清国は(甲)奉天省南部の土地(遼東半島)および(乙)台湾全島およびその付属諸島嶼および澎湖列島を日本に割与すること 清国は清国通貨である庫平銀3億両(テール)を日本軍費賠償として5ヶ年賦を以て支払うこと 清国と欧州各国とのあいだに存在する諸条約を基礎とし、日清新条約を締結すること。列強なみの最恵国待遇と通商特権の拡張 であった。さらに、これに加えて、 従来の各開市港場のほか、北京、沙市、湘潭、重慶、梧州、蘇州、杭州の各市港を日本臣民の住居営業のために開くこと 旅客および貨物運送のため日本国汽船の航路を拡張すべきこと 日本国民が輸入のさい、原価2パーセントの抵代税を納入した上は、清国内地の一切の税金・賦課金・取立金を免除すること。また、日本国民が清国内で購買した貨物で輸出であることが言明された場合は、抵代金・一切の税金・賦課金・取立金を免除すること 日本国民は清国内地において購買し、またはその輸入にかかる貨物を倉入するため何らの税金や取立金を納めずして倉庫を貸与する権利を有すること 日本国臣民は清国の課税および手数料を庫平銀を以て納めること。ただし日本国本位銀貨を以てこれを代納することも可とする 日本国臣民は清国において、各種の製造業に従事し、また各種の器械類を輸入することができる 清国は黄浦江河口にある呉淞浅瀬を取り除くことに着手する の諸点について、清国が日本に譲与することを求め、さらに、奉天府と威海衛を担保占領地とすることを要求した。 これらは、日本国内における陸軍と海軍、双方の要望を盛り込んだものであると同時に産業革命を迎えた日本経済界の要望でもあった。また、権益に関するこまごまとした譲与の部分は、従来イギリスが清に対してしばしば要求・交渉したものの未だ実現されていない内容とほぼ重複していた。すなわち、日本がこの条約に調印すれば、イギリスは既得の最恵国条項によって、自動的に同じ権益にあずかれたのである。日本にとって、差し迫った必要のないものまで要求事項に含めていたのは、こうして列強、とりわけイギリスからの干渉を封じるためであった。 しかし、これらは李鴻章の予想をはるかに超えた厳しい条件であった。そこで、李鴻章は原案の内容を北京の総理衙門に極秘裡に打電させ、割地に関する条項を北京駐在の英・露・仏の公使に漏洩すべしとして、列国に調停を求め、交渉の引き延ばしにかかった。その際、通商権益に関してはなるべく伏せるよう指示し、日本側の条件は苛酷であり、とくに遼東半島割譲は認められないことを訴えさせた。これがのちに三国干渉を引き起こす直接の原因となったのである。これに対し、陸奥宗光は逆に、割地の件は伏せて通商権益に関する条項に重点を置いて広報するよう関係者に指示した。通商権益の成文化は、列国としては歓迎すべきことであったため、結果としては、三国干渉による 2.割譲地のうち、遼東半島の割譲 以外に関しては、列強の干渉はなかったのである。 療養中だった李鴻章は日本側に対し、病床より長文の覚書を書き送っている。 領土割譲は清国民に復讐心を植えつけ、日本を久遠の仇敵とみなすだろう。日本は開戦にあたり、朝鮮の独立を図り、清国の土地をむさぼるものではない、と内外に宣言したではないか。その初志を失っていないならば、日清間に友好・援助の条約を結び、東アジアの長城を築き、ヨーロッパ列強からあなどられないようにすべきである。 これが覚書の一部であり、日本の過重な要求に対する反論が縷々述べられており、陸奥宗光が「実に筆意精到」「一篇の好文辞」と記したように、日清友好と東洋平和の理想を掲げた堂々たる文章であったが、もはや日本政府・陸海軍はもとより日本国民も李の訴えを受け容れる余地はなかった。 4月5日、清側は日本側草案について以下のような修正を望んだ。 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるというかたちに訂正すること 割譲地は全面拒否 賠償金の大幅な減額 開港場所の見直し他 であった。4月8日からは、日本側は李経方に清国側の回答を促した。4月9日、清側によって再度修正案として、1.については前回と同様、2.の割譲地については、奉天省内の安東県・寛甸県・鳳凰県・岫巖州および澎湖列島にとどめ台湾を除くこと、3.の賠償金については無利子の1億両とすることなどが示された。 4月10日、陸奥がインフルエンザに罹患して欠席した一方で、李鴻章が療養を終えて復帰したので、伊藤博文と李鴻章の2人で第5回会談が開かれた。李鴻章は、未占領地である台湾割譲はイギリスやフランスでさえ要求しえなかったことであり、賠償金を要求したうえ、さらに開港場である営口まで求めるのは「象は養うべし、食物は与えず」の理屈ではないかと日本側に強硬な反撃を加えた。伊藤は、 朝鮮については訂正を許さず 台湾は絶対の条件である 賠償金は2億両に減額 新規開港の数は減らす などの対案を提示し、遼東半島の割譲地は鴨緑江と遼河にはさまれた地域の営口・海城・鳳凰城を結んだ線より南側だけとし、償金を5か年賦を7か年賦に緩めることとした。李鴻章は、2.については、台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可であること、また、奉天省についても営口を除くことを主張し、3.については、さらなる賠償金の減額を求めた。しかし、伊藤は「清国の代表が、現在の状況を深く理解されることを望む。それは日本は勝者で、清国は敗者だということである。もし談判が破裂すれば、6〜70隻の輸送船は舳艫(じくろ)相ふくんで、増派の大軍を戦地に送り、その場合は北京の安危は言うに忍びざるものがある」と述べ、広島では出征準備が運送船60隻規模で進んでおり、昨夜から今朝まででも20隻が関門海峡を通過したので、13日まで受諾の可否についてのみ回答ありたいと李に迫った。李鴻章は、結局、14日の午後4時を期して回答すると答えて第5回会談を終えた4月11日、12日、13日は李と伊藤の間で書簡のやり取りが重ねられた。清側は重ねて、2.台湾の除外と3.賠償金のさらなる減額を求めたが、日本側はこれを退けた。伊藤は、「戦争というものは、先行きがどうなるものかわからないものであり、現在の講和条件もそのままかどうかわからない」と説いて清国側に受諾を迫った。 4月中旬に入り、李鴻章らは実際に近衛師団と第4師団を載せて清国を目指して西に向かう運送船が続々と関門海峡を通過する情景を目撃し、これに脅威を覚えた李は清国政府に打電して北京の危機を伝えたが、政府もまた大連湾に日本軍輸送船団が到着するのを知って、日本軍の北京攻撃が真剣なものであることを認識した。4月14日、清国政府は講和条約の調印を李鴻章ら全権に指示した。 4月15日、第6回会談が開かれた。それは5時間におよぶ長丁場であり、李鴻章も粘りに粘ったが、伊藤はほとんど譲歩しなかった。わずかに担保占領地を威海衛のみとし、駐兵費用の減額に応じただけであり、合わせて割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整もなされた。清国側ももはや日本の決意は固いとみて、これを最終妥結案とし、あとは列国の干渉にゆだねることとした。翌日の調印を約束して第6回会談を終えて帰ろうとする際、李鴻章は伊藤がこれほどまでに厳酷にして執拗な人間だとは思いもよらなかったと愚痴をこぼした。4月16日は、実務者レベルの会合が開かれ、条約文の起草と日本文・漢文・英文の照合が行われた。 4月17日午前、日本側伊藤博文・陸奥宗光、清国側李鴻章・李経方が春帆楼に会同して第7回会談が開かれ、日清講和条約(下関条約)が調印された。調印された内容は別項(#条約の内容)で示した通りの全11か条である。5月8日に予定された批准書交換までには時間があることから、李鴻章が休戦期間を17日間から21日間に延長し、5月8日当日までとすること、また、その適用を台湾・澎湖諸島にも拡大することを求め、日本側もそれを受け入れた。同日の午後、李鴻章ら清国使節団はさっさと赤間関を引き払い、帰国していった。伊藤と陸奥の2人も、翌18日には広島の宇品港に戻ったが、明治天皇は侍従長の徳大寺実則を迎えに出した。午後5時、伊藤・陸奥両全権は天皇に経過報告を行い、それに対し天皇は「卿等尊俎(そんそ)折衝日数を費やし遂に善く妥協を得たり、今卿等が奏する所の梗概(こうがい)は朕が旨に副う、まことに帝国の光栄を顕揚するに足る、朕卿等の功を偉とし深く之を嘉尚す」と褒めたたえて、その労をねぎらった。同時に広島に帰還した伊東巳代治内閣書記官長と佐藤進軍医総監も拝謁を許された。皇后も伊藤らを謁見し、その後、伊藤・陸奥・伊東・佐藤に山縣有朋、松方正義、黒田清隆、西郷従道、児玉源太郎らも交えて宮中面謁所で立食の宴が催された。 4月19日、日清両国の全権が退去したことにより、山口県赤間関市と福岡県門司町の2市町に施行されていた保安条例がようやく解除された。
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