講和条約批准国以外との国際関係
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「日本国との平和条約」の記事における「講和条約批准国以外との国際関係」の解説
日本国との平和条約、および日米安全保障条約(旧)の2条約の締結を以って日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰した。他方で、共産主義陣営のソ連と中国共産党政権、北朝鮮との間では軋轢が続いた。 日本は同平和条約締結後、インド、中華民国と個別に講和条約を締結した。ソ連との間は1956年に共同宣言に合意し国交回復したが、依然として現在まで講和条約は結ばれていない。中国共産党政権との間は1972年に共同宣言に合意し国交を結び、1978年に日中平和友好条約を締結し共同宣言の内容に国際法上の拘束力を与えた。 ユーゴスラビアとの間では1952年1月23日に書簡が交わされ、平和条約発効の日(1952年4月28日)をもって両国間の戦争状態が終了することが合意された。 中華民国との間では、日本国との平和条約の発効日と同じ1952年4月28日に日華平和条約を調印。 ビルマ連邦は1952年4月30日に日本との戦争状態を終結する声明を出している。 1952年(昭和27年)6月9日にインドは全ての賠償請求権を放棄するとともに日本は対印投資を約する日印平和条約が東京で締結された。2005年の演説でインドのマンモハン・シン首相は講和条約に関する日印関係を思い出されるべき重要なことと語った。 ルクセンブルクは、条約に署名したが批准せず1953年3月10日に公文の交換により国交を回復した。 コロンビアは、条約に署名したが批准せず1954年5月28日に公文の交換により国交を回復した。なお、1957年7月22日付け官報第9172号付録資料版によるとコロンビアは1941年12月8日に日本との国交を断絶したが最後まで日本に宣戦を布告せず、戦争状態にはなかった。 1956年10月19日、ソ連と日本は講和について合意を行い、日ソ共同宣言を発した。共同宣言が発効した同年12月12日より国交が正常化し、法的にも両国間の戦争状態が終了した。宣言の第9項では「引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」と明記されたが、択捉島および国後島の返還をも求める日本との間で平和条約交渉は停滞しており、また、ロシアによるウクライナ侵攻に対する日本の制裁への対抗策としてロシア側が平和条約交渉の中断を発表したこともあって、北方領土問題は現在も未解決のままである。 インドネシアは条約に署名したが批准せず、1957年1月20日に署名された日本国とインドネシア共和国との間の平和条約において正式に講和することになった。同条約は1957年4月15日に発効している。 チェコスロバキアとの間では1957年2月13日に国交回復に関する議定書が締結され、戦争状態終結が合意された。この議定書は1957年5月8日に発効している。 ポーランドとの間では1957年2月8日に国交回復に関する協定が締結され、戦争状態終結が合意された。この協定は1957年5月18日に発効している。 中華人民共和国との間では、1972年2月のニクソン大統領の中国訪問や国際連合でのアルバニア決議案可決を受けて、日本は1972年(昭和47年)9月29日、日中共同声明に合意し国交を結んだ。この声明で日本は中華人民共和国を「中国を代表する唯一の政府」と承認したため、中華民国は日本との関係を断交した。 条約発効直前の1952年1月18日、会議に招へいすらされなかった韓国政府は突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインの宣言を行い、竹島に韓国軍が侵略した。李承晩ラインの宣言に対し一方的だとして日米両政府は非難した。その後、険悪になった日韓両国は1965年(昭和40年)の日韓基本条約の締結において国交を結んだが、竹島問題は現在も日韓での外交問題となっている。
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