本島南部への避難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
第32軍司令部は、戦況の切迫を理由に沖縄本島へのアメリカ軍上陸直前の3月31日に北部への避難民の移動を禁止している。その後アメリカ軍が本当に上陸すると、すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部への避難は不可能になった。 アメリカ軍上陸から約1か月経過した4月27日に、沖縄県島田叡知事は住民保護のため、南部地区の市町村長と警察署長を繁多川の地下壕内に移転していた県庁内に召集して会議を開いている。その場で避難民の受け入れ態勢の整備や食糧確策等が話合われたが、第32軍も4月29日には島田叡沖縄県知事に対して住民を本島南部に避難させるよう要請し、多くの住民が南部に避難していた。 5月6日には「沖縄県後方指導挺身隊」(以下「挺身隊」)が組織された。挺身隊は島田知事を総帥とし、県職員と警察官で組織された。警察官は、首里戦線の末期においても召集を免除されていた400名を荒井県警察部長が掌握していた。彼らの任務は後方で県民の士気を鼓舞し、住民の食糧確保や壕生活の指導などであったが、県による住民保護活動の実践部隊となっている。 しかし、その後、第32軍は首里防衛線の崩壊の懸念が高まると、持久戦を行うには一番条件がいい沖縄南部の喜屋武に撤退し戦略持久作戦をとることとした。南部撤退決定後の5月22日に島田叡知事に知らされ、首里近辺の非戦闘員の南部島尻地区への撤収が指示された。島田は「首里を放棄して、南端の水際に下るとなれば、それだけ戦線を拡大することとなり、勢い県民の犠牲を大きくする」と軍の転進に強く反対するも決定は覆らなかった。南部地区は後退してくる軍と避難民が各所で溢れ混雑を呈した。 島田知事は25日に挺身隊に高嶺村與座方面への移動と住民保護を指示し、県庁も兼城の秋吉に移動した。 第32軍は、軍が喜屋武に撤退すれば知念半島が戦闘区域外になるため、『知念半島避難命令』を発令することとしたが、発令されたのは、第32軍喜屋武撤退決定後7日も経った5月29日であった。第24師団と沖縄県の住民対策の会議の席で、第24師団の杉森参謀が県知事の島田に「戦場外になると思われる知念半島に、住民を避難させよ」と指示したが、この頃には連合軍は第32軍の撤退を認識し、激しい追撃を開始しており、住民が知念に避難する道は閉ざされていた。これに対して島田は「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したが、軍が南部撤退決定後まもなくこの指示を出していれば、島田は知念半島への住民避難を推進する時間はあったため、沖縄県民の犠牲を少なくできた可能性が高かった。一方同じ頃、具志頭村付近の街道(現在の国道331号)を南下する避難民に対して、憲兵隊が知念半島へ避難するよう誘導していたが、すでに知念半島が米軍の占領下にあることを知っていた避難民たちはこれを信用せず、そのまま摩文仁方面に向かったという証言もある。 島田は3日に秋吉の壕を出て更に南下したが、その際に挺身隊に対し「もはや挺身隊は組織維持が困難となった為、3〜5名のグループに分散する態勢を取れ、今後も住民と共に行動し、知念・玉城地区に下って引き続き住民を保護せよ」と挺身隊の解散を指示している。島田らは5日に伊敷の轟の壕に移動し、9日にはもはや組織の体をなしていなかった県庁と警察の解散を命じている。 この後、軍民混在により戦闘に巻き込まれながら、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上っている。沖縄戦における住民の戦没者数は下記の通りであるが、第32軍が首里から沖縄南部に撤退した6月に集中している。 3月4月5月6月7月8月沖縄県住民戦没者数 3,081名 19,451名 24,627名 46,826名 5,644名 4,835名 なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した。 最後まで住民保護に腐心した島田も、18日に行動を共にしてきた仲宗根官房主事らを壕から脱出させた後は荒井と共に消息不明となり、南部地域の壕にて殉職したものと思われる。
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