本島北部への避難とは? わかりやすく解説

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本島北部への避難(島内避難)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

沖縄戦」の記事における「本島北部への避難(島内避難)」の解説

1944年10月10日十・十空襲による沖縄県民被害大きく那覇市街地90%が焼失したほか、県民1か月分の食糧焼失、生活必要物資ひっ迫県民の生活は困窮した当時沖縄管轄していた熊本財務局は、空襲被害による那覇市民の窮状考慮して空襲被害のあった地域租税徴収2年免除するという特例講じたまた、1942年2月24日施行された『戦時災害保護法』を適用し那覇市民の罹災者救援のために現金給付行ったが、アメリカ軍により日本本土から沖縄への海上輸送路は脅かされている状況で、現金購入できる物資にも事欠いており、実質的な効果薄かった沖縄県経済情勢急速に悪化する中、1944年12月軍中央より『皇土警備要領』が示達された。これは台湾南西諸島最前線位置付けて住民戦力化できるものとできないものに選別し戦力化できるものは戦闘後方支援食糧生産で軍に協力させ、戦力化できない老若婦女子はあらかじめ退避させるというものであったが、第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した南西諸島警備要領」を作成した。 およそ戦闘能力もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備および戦闘参加する60歳上の老人国民学校以下の児童ならびにこれを世話する必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘予期せざる島の北半部に疎開させる各部隊所属自動車その他の車輌並びに所属舟艇を以て極力疎開援助する爾余住民中、直接戦闘参加せざる者は、依然戦闘準備作業農耕その他生業に従事し戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧居住施設準備する。 この要領作成した八原には「サイパン二の舞厳に慎むべき、アメリカ文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」という考えがあったが、この要領により、17歳45歳までの青壮男子根こそぎ防衛召集され戦力化され、中学生沖縄師範学校生徒高等女学校生徒らも、疎開することを禁止され通信兵看護婦として軍に協力させられて『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』などに組み入れられた。 1945年1月31日島田叡新沖県知事着任したが、第32参謀長の長と島田上海事変のときからの旧知の仲であった。長は泉守紀前知事のときの不遜な態度はうって変わり島田には礼を尽くし島田着任早々に情報主任参謀連れて自ら沖縄県庁訪ねた。そこで長は島田に「ウルシー島を進撃した機動部隊は、沖縄方面向かっている。一週間後の、2月25日頃には、沖縄までやってくる」と詳細な軍事情勢伝え米軍沖縄上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍へとへとになって引き揚げるだろう。その間住民食糧6か月分を、県において確保してほしい」と要請した長の要請受けた島田は、着任早々に関わらず常な熱意食糧確保奔走し2月には危険を冒して台湾飛んで台湾米を10万確保することに成功した。しかし、その後台湾沖縄間の海上輸送アメリカ軍潜水艦により断絶し、せっかく確保した台湾米も一部しか沖縄に届かなかった。島田そのほかにも、大蔵省専売局出張所に自ら出向き厳しく統制されていた酒や煙草の特別放出指示するなど少しでも沖縄県民の心をなごやかにするような努力おこなった食糧備蓄少なく、また「やんばる」と呼ばれるマラリア発症地の沖縄北部山岳地帯すすんで避難しようという住民少なく沖縄県必死呼びかけや、軍用車両提供するなどの軍の努力にも関わらず疎開遅々として進まなかった。沖縄県家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用の食糧として転用するなどの策を講じ戦闘開始前までに85,000名を沖縄北部疎開させたが、これは予定の1/3に過ぎなかった。北部山岳地帯耕作地限られさらにはマラリア発症地帯であって餓死マラリア死者を出すことになった沖縄市民の北部での死者戦闘を含む全ての要因合わせて600名)。しかしその後上陸したアメリカ軍沖縄北部制圧した5月上旬までに130,000人の住民アメリカ軍収容されており、結果的に疎開した多く住民生存することができた。沖縄本島北部疎開により救われ沖縄県民150,000人に達したという推計もある。 そのほか本島から先島諸島への集団疎開実施されたが、食料衛生器材の不足で多く病死者をだしている。八重山列島ではマラリア汚染地に多く住民疎開させられたため、16,884人がマラリア感染し、うち3,647人が死亡している。これは後に戦争マラリア呼ばれた。 なお、アメリカ軍上陸2ヶ月前の1945年1月末、第32軍司令部では戒厳令適用により行政権司法権軍司令官掌握することを検討したが、着任した島田叡県知事との会議結果、県と軍の協力体制実現できたとして戒厳布告見送った同じく陸軍中央でも1944年6月頃から戒厳令適用研究していたが、結論出ず終わっている。戒厳布告見送られたことで軍が民政対す責任負わず無秩序な徴用スパイ容疑での住民処刑つながったという説もある。

※この「本島北部への避難(島内避難)」の解説は、「沖縄戦」の解説の一部です。
「本島北部への避難(島内避難)」を含む「沖縄戦」の記事については、「沖縄戦」の概要を参照ください。

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