部隊再編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:43 UTC 版)
「ペトレ・ドゥミトレスク」の記事における「部隊再編」の解説
1942年6月28日からの夏季攻勢作戦であるブラウ作戦に参戦していた第3軍は、ドイツ軍の第17軍の右翼を担った。7月18日に大将へ昇進。昇進直後、ドゥミトレスクはアゾフ海と黒海の間に位置するタマン半島に向かい、クリミア半島の枢軸国陣営とノヴォロシースクの陣営を結び付ける橋を建設した。 一連の作戦中、スターリングラードのドイツ軍は緊急の支援を必要としていた。国防軍最高司令部はドゥミトレスクの第3軍を包囲されたスターリングラードに移動させたが、これは戦いの中で消耗した第3軍には、既に大きな戦線を維持できるほどの力がなかったことを意味する。戦力不足問題は、ソ連南西部に展開していたルーマニア軍の他部隊を全て第3軍に統合することである程度の改善が図られている。この時、ドゥミトレスクは南西部におけるソ連軍の勢力拡大を最高司令部に報告したが、結果として彼の報告を無視する形での統合が行われた。11月、ソ連は南西部よりウラヌス作戦を開始した。ドイツやルーマニア、イタリアなどからなる防衛戦線は、矢面に立たされた第3軍もろとも壊滅し、ドゥミトレスクも後退を余儀なくされた。 後方要員や軍属などをかき集め、辛うじて体制を立て直した第3軍はチル川(ロシア語版)付近でソ連に抵抗をみせたが、やがて押し戻された。12月、西方への戦略的撤退が決定された。 ウラヌス作戦の後、第3軍はヴァルター・ヴェンクを参謀長に迎え入れて再編された。1944年3月26日から8月24日までの間、ドゥミトレスクは第3軍に加えてドイツ軍の第6軍も指揮下に置き、新たにドゥミトレスク軍集団を形成した。この軍集団は第一次ヤッシー=キシニョフ攻防戦においてソ連の攻勢を退けることに成功している。 第二次ヤッシー=キシニョフ攻防戦後、ドゥミトレスクはブカレストに向かい、その行程でソ連との交戦を避ける計画を練っていた。しかし、赤軍部隊はドゥミトレスクを待ち伏せしていた。彼らはブカレストに到達したものの、待ち伏せていた赤軍によって130,000人ものルーマニア軍兵士が捕らえられた。 同時期、アントネスク体制が崩壊し、ルーマニア王国は連合国支援へ転換した。ドゥミトレスクも反ナチス体制の下で6,000人ほどのドイツ軍捕虜を取ったが、しばらくして予備役に回された。
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