明治日報創刊と忠愛主義
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「太田實 (実業家)」の記事における「明治日報創刊と忠愛主義」の解説
明治14年7月1日、丸山作楽などと「忠愛社」を創立し『明治日報』を発刊してその主幹を務めた。『明治日報』は専ら政府弁護の衝に立ち急そう過激の議に抗する保守的立場をとっていた。いわゆる政府御用新聞と見做されていた。その忠愛社の主旨を全国に知らしめるため、太田實と根津千引の二人で忠愛社社員として、明治15年1月30日から4月10日の長期にわたり、東海道、南海道(静岡、名古屋、大阪等)を巡遊した。巡遊中、いたるところで軽進急操の不可なることを説いて大いに急進過激派の輩をいましめ、同時に忠愛社の主旨に賛同を得るべく活動した。この間、明治14年に大詔渙発して国会開設の期が定まって以来、自由党結成を皮切りに政党結成の機運が高まりつつあった。忠愛社代表の丸山作楽は、福地源一郎、水野虎次郎などと諮り明治15年3月18日「立憲帝政党」を結成した。立憲帝政党の主義綱領は、忠愛社の主旨に基づいているが、巡遊を通して民権への流れは抗しがたいと悟ったのか、太田實は別に見るところありとして、これに加わらず独立単行することになる。明治15年6月まで『明治日報』の主幹を務めたが、やがて再び官僚に戻ることになる。
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