昭和17年12月から昭和18年前半の戦い
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「長波 (駆逐艦)」の記事における「昭和17年12月から昭和18年前半の戦い」の解説
海戦には勝利したものの、本来の目的であるドラム缶輸送は果たせていなかった。駆逐艦を増強し、12月3日から4日にかけて増援部隊指揮官(田中頼三少将、二水戦司令官)指揮下で第二輸送作戦がおこなわれた。長波をふくめ駆逐艦10隻による輸送では、空襲で巻波が小破、ドラム缶1500個を投入したが陸軍が揚収したのは310個であった。この頃、ショートランド泊地に秋月型駆逐艦照月が到着した。田中頼三少将は、二水戦旗艦を長波から照月に変更した。 12月7日から8日にかけての第三次輸送作戦は、第15駆逐隊司令の指揮下で長波をふくめ駆逐艦11隻が参加した。往路で駆逐艦野分が空襲を受けて航行不能となり、長波は野分を曳航してショートランド泊地に引き返した。2隻を駆逐艦嵐(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)と有明が護衛した。魚雷艇や米軍機の妨害により、輸送作戦は失敗に終わった。 12月11日から12日にかけての第四次輸送作戦は増援部隊指揮官(二水戦司令官、旗艦「照月」)の直率下で行われ、連合艦隊司令長官山本五十六大将は「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ務メヨ」と激励した。長波ふくめ駆逐艦11隻で実施する。ガダルカナル島に到着してドラム缶を揚陸中、増援部隊は米軍魚雷艇に襲撃されて旗艦照月が被雷、航行不能となる。田中少将ふくめ第二水雷戦隊司令部は長波に移乗した。二水戦司令部退去後、照月は自沈した。投下したドラム缶1200個のうち、揚収できたのは220個であったという。 12月14日にラバウルに後退してからは、ニュージョージア島ムンダ(日本軍飛行場建設中)への輸送作戦に参加する。増援部隊指揮官(二水戦司令官)直率のもと、長波ふくめ駆逐艦6隻は12月16日1400ショートランド泊地を出発する(ムンダ第一回輸送、第一次)。夜間空襲を受け、陽炎が小破した。翌日0500、ショートランド泊地に帰投した。 12月25日13時、駆逐艦卯月と輸送船南海丸(大阪商船、8,416トン)はムンダに向けラバウルを出発した(ムンダ第二回輸送、第四次)。17時30分、セントジョージ岬西南西24浬で米潜水艦シードラゴンの雷撃を受け、南海丸が損傷する。さらに南海丸と卯月が衝突、卯月は航行不能となった。駆逐艦4隻(長波、有明、谷風、浦風)は急遽ラバウル出撃、救援にむかう。長波は鶴見等とともに南海丸を護衛して避退、同船は26日15時頃ラバウルに帰投した。 12月30日、増援部隊指揮官(第二水雷戦隊司令官)は田中頼三少将から小柳冨次少将(海兵42期)に代わり、引き続き長波を二水戦旗艦とした。年明けた1943年(昭和18年)1月2日から3日にかけての第五次輸送は、長波ふくめ駆逐艦10隻で行われた。レンドバ島付近で空襲をうけ涼風が損傷、電の護衛下で引き返した。最前線で長期間活動していた二水戦各艦は消耗が激しく、4隻(長波、親潮、陽炎、涼風)は前進部隊に復帰した。1月10日、増援部隊旗艦(二水戦旗艦)は長波から黒潮に変更された。翌日、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は、第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将から第十戦隊司令官木村進少将に引き継がれた。12日1000、二水戦司令官は「長波」を率いてショートランド泊地を出発した。14日、トラックに到着した。長波は3月7日までトラック泊地で整備を行った。 1月19日、第十戦隊旗艦の秋月型駆逐艦秋月は米潜水艦ノーチラスに雷撃されて大破、第十戦隊司令官(木村少将)も負傷した。小柳少将(第二水雷戦隊司令官)は第十戦隊司令官に任命され、長波から将旗を撤収する。神通艦長が臨時に二水戦司令官を代行したあと、後任の二水戦司令官には伊崎俊二少将(海兵42期)が任命された。長波は工作艦明石の世話になった。整備中の1月20日、五十鈴は第二水雷戦隊からのぞかれ第十六戦隊へ転籍した。同日附で、夕雲型駆逐艦大波(藤永田造船所建造艦、前年12月29日竣工)が第31駆逐隊に編入された。2月25日には姉妹艦清波(浦賀船渠建造艦、1月25日竣工)が31駆に加わった。第31駆逐隊は定数4隻(長波、巻波、大波、清波)となった。 3月8日に、前年暮れに救援した南海丸を護衛してトラックを出港し、瀬戸内海まで護衛の後舞鶴に回航され、3月17日に入港した。舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなう。修理後、4月20日に舞鶴を出発する。横須賀に回航された。4月25日、第十四戦隊の軽巡洋艦那珂と駆逐艦3隻(長波、時雨、有明)は、空母雲鷹と冲鷹を護衛してトラックに向かう。4月30日、艦隊はトラック泊地に到着した。 5月8日、軍艦5隻(戦艦〈大和〉、空母〈雲鷹、冲鷹〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉)は駆逐艦部隊(長波、潮、夕暮、五月雨)に護衛されてトラックを出港し、それぞれ内地に帰投した。5月13日、長波と五月雨は第五戦隊および空母と共に横須賀へ帰投した。 横須賀到着の前日、連合軍はアッツ島に上陸を開始、アッツ島の戦いが始まった。第五戦隊および長波と五月雨は北方部隊(第五艦隊基幹)に編入され、アリューシャン列島への進出を命じられる。5月15日、4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)は横須賀を出発、19日幌筵に到着した。北方部隊はアッツ島救援のため駆逐艦神風と野風をアッツ島に突入擱座させて補給を行う計画を立てていたが、実施されなかった。5月29日、アッツ島守備隊は玉砕した。6月1日、長波は補給の際に舷側に損傷を負い、翌日幌筵を出発する。6月5日、舞鶴に到着した。修理と機銃増備工事をおこなう。23日、舞鶴を出動する。7月1日、幌筵島に進出した。
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