南海丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/07 14:17 UTC 版)
南海丸 | |
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基本情報 | |
船種 | 客船 |
クラス | 山陽丸級客船 |
船籍 | ![]() ![]() |
所有者 | 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 広瀬産業 藤田邦弘 和洋汽船 |
運用者 | ![]() 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 広瀬産業 藤田邦弘 和洋汽船 |
建造所 | 三菱造船神戸造船所[1] |
母港 | 東京港/東京都 大阪港/大阪府 高知港/高知県 |
姉妹船 | 山陽丸 |
船舶番号 | 29427→69566[2] |
信号符字 | SNBK→JCLE→JRPD[2] |
改名 | 南海丸→新生丸[2] |
経歴 | |
起工 | 1923年1月8日[2] |
進水 | 1923年4月18日[2][3] |
竣工 | 1923年6月25日[4] |
就航 | 1923年7月3日[4] |
運航終了 | 1948年12月27日 |
その後 | 1965年9月解体[2] |
要目 | |
総トン数 | 561.19トン[5] |
垂線間長 | 140.00フィート (42.67 m)[2][5] |
型幅 | 28.6フィート (8.72 m)[5] |
深さ | 13.86フィート (4.2 m)[5] |
型深さ | 12フィート6インチ (3.8 m)[2] |
ボイラー | 就航時 池田式水管缶 2基[6] |
主機関 | 就航時 減速歯車付きパーソンズ式反動タービン機関 2基[6] 1956年 焼玉機関 2基[2] |
推進器 | スクリュープロペラ 2基 |
出力 | 就航時 700SHP[2] 1956年 260HP[2] |
最大速力 | 1956年 10ノット |
航海速力 | 就航時 13.861ノット[1][2] 1956年 9ノット[2] |
旅客定員 | 就航時[6] 二等:158名 三等:899名 1935年[6] 二等:157名 三等:746名 |
南海丸(なんかいまる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道)宇高航路に在籍した客船。同型船に「山陽丸」がある[6]。
概要
「山陽丸」型は当時の瀬戸内海の連絡船では設備の優秀な快速船であり[7]、遊覧船のような船であった[6]。遊歩甲板前部が展望室となっており、その後部と上甲板に二等客室が、遊歩甲板後部と上甲板、下層甲板に三等客室があった[6]。1930年(昭和5年)に運搬車28両を搭載できるように改装された[6]。木部にはすべてチーク材が用いられ、畳敷きの二等客室に敷かれた絨毯は当時800円もしたものであり、洗面所や便所には大理石が多く用いられるなど、船の設備は贅沢なものであった[8]。
「南海丸」の旅客定員は以下のように変わっている[6]。
年 | 二等客室 | 三等客室 |
---|---|---|
1923年(大正12年) | 158名 | 899名 |
1930年(昭和5年) | 158名 | 954名 |
1934年(昭和9年)3月 | 158名 | 796名 |
1934年(昭和9年)6月 | 157名 | 953名 |
1935年(昭和10年) | 157名 | 746名 |
船歴
「南海丸」は三菱造船神戸造船所で建造され[1]、1923年(大正12年)1月8日に起工[2]。同年4月18日に進水し[2][3]、6月25日に竣工[4]。7月3日に就航した[4]。
1930年(昭和5年)5月11日、貨客船「大信丸」(大阪商船、1,304トン)と衝突[9]。
1934年(昭和9年)9月22日、鉄道の不通に伴い「山陽丸」とともに宇野・相生間で臨時運行される[10]。
1937年(昭和12年)7月23日、「第二勢登丸」と衝突[11]。1943年(昭和18年)4月6日、女木島付近で座礁したが自力で離礁[12]。
同年5月13日、「南海丸」は宇野港で沈没した[13]。5月12日22時37分に「南海丸」は旅客778名を乗せて高松港を出港し、23時31分に宇野港に進入した[14]。港内に停泊していた「古城丸」(大連汽船、1,684トン)の西側を通過中、潮流に流されて弁天島沖の浮標に接近[14]。面舵を取って岩礁を避けた直後に「南海丸」は存在を知られていなかった岩礁に接触し、浸水した[13]。「南海丸」は桟橋へ向かい、23時43分から8分間で全乗客が上陸した[13]。その後、13日0時5分ごろに「南海丸」は沈没した[15]。「南海丸」は7月4日に浮揚され、修理されて10月1日に復帰した[12]。
1944年(昭和19年)10月23日、高松港口の北西約1600mで漁船と衝突[16]。
戦後はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-N051の管理番号が付与されたが[2]、他船と重複するため、後にSCAJAP-N057に変更された[2]。
1948年(昭和23年)12月27日、運航廃止[17]。1951年(昭和26年)4月27日、高松港で係船される[18]。1953年(昭和28年)9月7日、「山陽丸」とともに広瀬産業に売却された[6]。
1956年(昭和31年)、藤田邦弘に売却され、主機を焼玉機関に変更する等の改装工事を受け、新生丸に改名[2]。1963年(昭和38年)、和洋汽船に売却[2]。
1965年(昭和40年)9月、広島県の沼隈にて解体が開始され、解体された[2]。
脚注
- ^ a b c 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』337ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t “なつかしい日本の汽船 南海丸”. 長澤文雄. 2025年5月9日閲覧。
- ^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336ページ
- ^ a b c d 『宇高航路50年史』263ページ
- ^ a b c d 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336-337ページ
- ^ a b c d e f g h i j 『宇高航路50年史』47ページ
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』12ページ
- ^ 『宇高航路50年史』47-48ページ
- ^ 『宇高航路50年史』265ページ
- ^ 『宇高航路50年史』267ページ
- ^ 『宇高航路50年史』268ページ
- ^ a b 『宇高航路50年史』271ページ
- ^ a b c 『宇高航路50年史』229-230ページ
- ^ a b 『宇高航路50年史』229ページ
- ^ 『宇高航路50年史』230ページ
- ^ 『宇高航路50年史』272ページ
- ^ 『宇高航路50年史』275ページ
- ^ 『宇高航路50年史』277ページ
参考文献
- 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
- 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年
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