山陽丸_(宇高連絡船)とは? わかりやすく解説

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山陽丸 (宇高連絡船)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 19:59 UTC 版)

山陽丸
基本情報
船種 客船
クラス 山陽丸級客船
船籍 大日本帝国
日本
所有者 鉄道省
運輸通信省
運輸省鉄道総局
日本国有鉄道
広瀬産業
岸本熊一
渡辺俊夫
運用者 鉄道省
運輸通信省
運輸省鉄道総局
日本国有鉄道
広瀬産業
岸本熊一
渡辺俊夫
建造所 三菱造船神戸造船所[1]
母港 東京港/東京都
大阪港/大阪府
木江港/広島県
姉妹船 南海丸
信号符字 SMWR→JCKE→JHWR→JBZI[2]
IMO番号 29418(※船舶番号)[2]
改名 山陽丸→東光丸[2]
経歴
起工 1923年1月8日[2]
進水 1923年4月17日[2][3]
竣工 1923年6月2日[4]
就航 1923年6月29日[4]
運航終了 1948年12月27日[5]
その後 1968年5月18日解体[2]
要目
総トン数 561.19トン[6]
垂線間長 140.00フィート (42.67 m)[2][6]
型幅 28.6フィート (8.72 m)[6]
深さ 13.90フィート (4.2 m)[6]
型深さ 12フィート6インチ (3.8 m)[2]
ボイラー 就航時
池田式水管缶 2基[7]
主機関 就航時
減速歯車付きパーソンズ反動タービン機関 2基[7]
1956年
ディーゼル機関 2基[2]
推進器 スクリュープロペラ 2基
出力 就航時
355SHP[2]
1956年
350PS[2]
航海速力 13.90ノット[1]
旅客定員 就航時[7]
二等:158名
三等:899名
1935年[7]
二等:157名
三等:746名
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山陽丸(さんようまる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道宇高航路に在籍した客船。同型船に「南海丸」がある[7]

船名の「山陽」は、山陽道に由来する[要出典]

概要

「山陽丸」型は当時の瀬戸内海の連絡船では設備の優秀な快速船で[8]、遊覧船のような船であった[7]。遊歩甲板前部が展望室となっており、その後部と上甲板に二等客室が、遊歩甲板後部と上甲板、下層甲板に三等客室があった[7]1930年昭和5年)に運搬車28両を搭載できるように改装された[7]。木部にはすべてチーク材が用いられ、畳敷きの二等客室に敷かれた絨毯は当時800円もしたものであり、洗面所や便所には大理石が多く用いられるなど、船の設備は贅沢なものであった[9]

「山陽丸」の旅客定員は以下のように変わっている[7]

二等客室 三等客室
1923年大正12年) 158名 899名
1930年(昭和5年) 158名 833名
1934年(昭和9年)3月 158名 831名
1934年(昭和9年)6月 157名 953名
1935年(昭和10年) 157名 746名

船歴

「山陽丸」は三菱造船神戸造船所で建造され[1]、1923年(大正12年)1月8日に起工[2]。同年4月17日に進水し[2][3]6月2日に竣工[4]6月29日に就航した[4]

同年10月1日、荒神島に乗り上げた[4]

1934年(昭和9年)9月22日、鉄道の不通に伴い「南海丸」とともに宇野・相生間で臨時運行される[10]

1941年(昭和16年)1月29日、宇野桟橋南端の南400mで「高知丸」(809トン)と衝突[11]11月1日、宇野桟橋南端の南西30mmで「住吉丸」(19トン)と衝突[11]1942年(昭和17年)1月17日、高松桟橋の北約20mで「第一宇高丸」と衝突[12]1943年(昭和18年)4月6日、俎石灯標の西北西約10mで擱座[13]1944年(昭和19年)3月10日、牛ノ子灯標の南西約190mで再度「第一宇高丸」と衝突[14]。「山陽丸」は座礁したが、自力で離礁した[14]。同年5月10日、葛島北端の南東200mで擱座[14]

戦後はGHQ日本商船管理局en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-S110の管理番号が付与された[2]

1945年(昭和20年)9月7日、宇野港で「第五迎日丸」と接触[15]

同年9月22日と翌23日、山陽本線の不通に伴い尾道・柳井間で臨時運行される[15]

1946年(昭和21年)2月5日、宇野桟橋の南東約600mで3AT型戦時標準船「戸畑丸」(日本郵船、7,243トン)と衝突[16]

1948年(昭和23年)12月27日、運航廃止[5]1949年(昭和24年)8月29日高松港で係船される[17]1953年(昭和28年)9月7日、「南海丸」と共に広瀬産業に売却された[7]

1956年(昭和31年)、岸本熊一に売却されて主機をディーゼル機関に変更する改装を受け、東光丸に改名[2]1959年(昭和34年)、渡辺俊夫に売却[2]

1968年(昭和43年)5月18日泉大津にて解体が開始され、解体された[2]

脚注

  1. ^ a b c 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』337ページ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q なつかしい日本の汽船 山陽丸”. 長澤文雄. 2025年5月7日閲覧。
  3. ^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336ページ
  4. ^ a b c d e 『宇高航路50年史』263ページ
  5. ^ a b 『宇高航路50年史』275ページ
  6. ^ a b c d 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336-337ページ
  7. ^ a b c d e f g h i j 『宇高航路50年史』47ページ
  8. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』12ページ
  9. ^ 『宇高航路50年史』47-48ページ
  10. ^ 『宇高航路50年史』267ページ
  11. ^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』277ページ
  12. ^ 『宇高航路50年史』270ページ
  13. ^ 『宇高航路50年史』271ページ
  14. ^ a b c 『宇高航路50年史』272ページ
  15. ^ a b 『宇高航路50年史』273ページ
  16. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』280ページ
  17. ^ 『宇高航路50年史』276ページ

参考文献

  • 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
  • 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年



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