第三関門丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/09 09:08 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2023年11月)
|
第三関門丸 第四関門丸 |
|
---|---|
基本情報 | |
船種 | 貨車航送船 |
クラス | 第三関門丸級貨車航送船 |
船籍 | ![]() ![]() |
所有者 | 鉄道省 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 日本自動車航送 |
運用者 | ![]() 運輸通信省 運輸省鉄道総局 日本国有鉄道 日本自動車航送 |
建造所 | 大阪鉄工所 |
母港 | 東京港/東京都 |
信号符字 | SHWC(第三関門丸)[1] SHWJ(第四関門丸)[2] |
IMO番号 | 28455(※船舶番号/第三関門丸)[1] 28459(※船舶番号/第四関門丸)[2] |
経歴 | |
進水 | 1921年11月(第三関門丸)[1] 1921年12月(第四関門丸)[2] |
竣工 | 1921年12月12日(第三関門丸)[1] 1922年1月13日(第四関門丸)[2] |
就航 | 1921年12月16日(第三関門丸) 1922年1月13日(第四関門丸) |
運航終了 | 1948年12月27日 |
その後 | 1960年解体(第三関門丸)[1] 1959年8月解体(第四関門丸)[2] |
要目 (基本的に第三関門丸、第四関門丸共通。) | |
総トン数 | 493.1トン |
全長 | 190.0フィート (57.91 m) |
垂線間長 | 176フィート (53.64 m)[1][2] |
型幅 | 30フィート (9.14 m) |
型深さ | 14フィート (4.3 m)[1][2] |
主機関 | 三連成レシプロ機関 2基[1][2] |
推進器 | 両舷側式外輪 |
出力 | 426IHP(第三関門丸)[1] 362IHP(第四関門丸)[2] |
航海速力 | 8.86ノット(第三関門丸)[1] 9.63ノット(第四関門丸)[2] |
車両搭載数 | 就航時 7トン積貨車 7両 1931年 ワム7両 |
第三関門丸(だいさんかんもんまる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道)関森航路、宇高航路に在籍した自航式の貨車航送船。同型船に「第四関門丸」がある。
「第一関門丸」の改良型で、船首、船尾どちらからも貨車を搭載できるように、外輪船であった。
ここでは、「第三関門丸」と「第四関門丸」共に記述する。
概略
「第三関門丸」と「第四関門丸」は大阪鉄工所が建造し、「第三関門丸」は1921年(大正10年)12月16日に、「第四関門丸」は1922年(大正11年)1月13日に就航する。
車両甲板には軌道が一本敷設され、7トン積貨車を7両積み込むことができる。関門海峡は潮流が速く、航送場の前面で船を旋回することが困難であったことから、そこで前進、後退と停止をすばやく行うため外輪船方式が採用され、船首、船尾どちらからも搭載できるように、船体は、機関と煙突などをのぞき、前後対称となっている。
操船を容易にする目的で、機関を1基搭載から2基搭載に変更した。このため、左右の外輪を別方向に回転させることができた。しかし機関と外輪のバランスを考慮しなかったために、軸に対してねじりモーメントが大きくなり、軸を折損するトラブルがしばしば起きたという。
1931年(昭和6年)、「第三関門丸」と「第四関門丸」は改造が行われ、甲板先端を延長し、ワム型15トン積貨車を7両積み込めるようになった。このため貨車の搭載は船首だけで行われるようになった。
1942年(昭和17年)7月1日、関門トンネルが開通し、鉄道車両渡船が廃止される。
その後、輸送能力が逼迫していた宇高航路へ関門丸5隻は転属となる[3]。「第三関門丸」と「第四関門丸」は「第五関門丸」と共に同年9月28日に転属し、「[10月6日]]に運航が開始された[4]。
関門丸5隻は船型が独特であったため、宇野駅と高松駅に関森航路の施設を転用、関門丸型専用の航送場を設置した。それでも不十分であったので、1946年(昭和21年)8月に新たな設備を設置した。
1943年(昭和18年)8月23日、「第三関門丸」は中ノ瀬灯浮標の北東約500mで「昭南丸」(249トン)と衝突した[5]。
戦後はGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)により「第三関門丸」にはSCAJAP-K117の管理番号が[1]、「第四関門丸」にはSCAJAP-K118の管理番号がそれぞれ付与された[2]。
1945年(昭和20年)11月8日、高松市営桟橋北端で「第四関門丸」は「第二関門丸」と衝突した[6]。1947年(昭和22年)10月14日、中ノ瀬浮標付近で「第三関門丸」は「第二宇高丸」と衝突し、「第二宇高丸」は沈没した[7]。
関門丸5隻は1948年(昭和23年)12月27日に運航停止となるが、その直前の同年11月8日、直島水道北口で「第四関門丸」は「天長丸」(19トン)と衝突した[8]。その後紫雲丸型の就航に伴い必要がなくなったため、関門丸5隻は1950年(昭和25年)5月10日に日本自動車航送に売却された[9]。
1959年(昭和34年)8月、「第四関門丸」は神戸で解体され[2]、「第三関門丸」も翌1960年(昭和35年)に解体された[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l “なつかしい日本の汽船 第三関門丸”. 長澤文雄. 2025年5月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l “なつかしい日本の汽船 第四関門丸”. 長澤文雄. 2025年5月4日閲覧。
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』51、113ページ
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』113、277ページ
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』278ページ
- ^ 『宇高航路50年史』273ページ
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』281ページ
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』282ページ
- ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』114、282-283ページ
参考文献
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1965年1月号(通巻166号)
- 升田嘉夫 関門航路63年の幕を閉ず
- 青木栄一 関門鉄道連絡船の歩み
- 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
- 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年
- 第三関門丸のページへのリンク