シンガポールから楡林まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/07 15:38 UTC 版)
「ヒ72船団」の記事における「シンガポールから楡林まで」の解説
シンガポールに集結したヒ72船団は、9月6日、梶岡少将の総指揮の下で出発、南シナ海中央航路で北上した。マモ03船団も輸送船3隻・護衛艦4隻で10日にマニラを出発し、11日に洋上で合同した。マモ03船団の護衛艦中3隻はマニラに帰還したため輸送船9隻・護衛艦6隻となった船団は、輸送船を3列縦隊に並べ、その両側に護衛艦3隻ずつを配置した陣形を組むと、速力10.5ノットで対潜警戒の之字運動を実施しながら進行した。 9月12日に日付が変わったころには船団は潜水艦グロウラーに発見されていた。日本側も敵潜水艦の発した電波を受信し警戒を強めていたが、グロウラーの接近にまでは気づいていなかった。真っ先に攻撃を受けたのは旗艦「平戸」で、海南島東方500kmの南シナ海中央北緯18度15分 東経114度20分 / 北緯18.250度 東経114.333度 / 18.250; 114.333地点を航行中、グロウラーの放った魚雷が午前1時55分に命中した。艦は激しい水柱に包まれて一瞬で沈没してしまい、梶岡少将も戦死した。旗艦を失った船団は混乱に陥り、曇天の視界不良もあって陣形を再構築できないまま航行するうち、12日夜明けごろに今度はグロウラーの呼びだしたシーライオンの攻撃を受けた。まず、午前5時27分に海軍徴用貨物船南海丸(大阪商船:8416総トン)が魚雷2発を被弾、積荷のドラム缶入り航空用ガソリンに引火炎上し、自衛用の爆雷の誘爆を起こしつつ3時間後に沈没した。南海丸被雷の4分後には楽洋丸にも魚雷が命中し、航行不能に陥って13時間後に沈没した。日本の護衛部隊は反撃を試みたが、逆に駆逐艦敷波までがグロウラーの雷撃により撃沈されてしまった。 相次ぐ損害にヒ72船団は針路を変えることで敵の目を欺こうとし、海南島の三亜に向かった。しかし、グロウラーのウルフパックを振り切ることはできず、午後10時54分頃、三亜東方300kmにおいてパンパニトの魚雷攻撃を受けた。指揮船の勝鬨丸と、タンカーの瑞鳳丸(飯野海運:5135総トン)が同時に被雷し、いずれも沈没した。勝鬨丸乗船の細谷大佐を含む多数が死亡している。生き残った船はバラバラのまま、一部は救助活動も行いつつ翌13日になんとか三亜に逃げ込んだ。この間、護衛部隊はマニラから急派された海防艦3隻も加わって、三亜と遭難現場を往復しながら救助活動を行っている。
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