シンガポールからニャチャンまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/25 07:06 UTC 版)
「ヒ88J船団」の記事における「シンガポールからニャチャンまで」の解説
ヒ88J船団は、最終目的地の門司を目指し、3月19日にシンガポールから出航した。ところが、いくらも進まないシンガポール海峡東側出口で、1TM型戦時標準タンカーのさらわく丸(三菱汽船:5135総トン)が機雷に接触してしまった。アメリカ陸軍航空軍が航空敷設した機雷だった。なんとか同船は擱座して沈没を免れたものの、船団には参加不能となった。さらわく丸は修理ができないまま、21日に結局沈没した。 船団は、残った輸送船を2列縦隊に並べ、外周を護衛艦および天津風が囲む陣形を組んだ。船団は、潜水艦の襲撃を避けるために、水深が浅く潜水艦の行動しにくい沿岸ギリギリに針路をとった。船団速力7ノットと低速のため、対潜警戒用の之字運動は実施しなかった。 3月23日にフランス領インドシナのサンジャック(現在のブンタウ)沖にたどり着いたヒ88J船団は、サンジャック行きの貨物船3隻を分離し、代わりに駆潜艇1隻を護衛に追加した。27日に海防艦2隻が合流。さらに27日夜、ニャチャン(ナトラン)についたところで、先行していたヒ88I船団とも合流した。もっとも、「船団」といっても輸送船はすでに全滅しており、小破状態の駆潜艇1隻にすぎなかった。この間、27日朝からB-24爆撃機の偵察を受け始めていたが、まだ空襲は始まらなかった。
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