名古屋付近鉄道総合改良計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 15:57 UTC 版)
「南方貨物線」の記事における「名古屋付近鉄道総合改良計画」の解説
南方貨物線の原型は1939年(昭和14年)に鉄道省岐阜工事事務所(後の国鉄岐阜工事局)が立案した名古屋付近鉄道総合改良計画にある。当時、日中戦争勃発後の軍需輸送増大により稲沢操車場の貨車中継能力が限界に達しており、同計画では貨物輸送増強策の一環として新たに八田、勝川、大府に操車場を設けることが構想されていた。付随する貨物線の新設も検討され、それぞれ南方貨物線(八田)、北方貨物線(勝川)、東方貨物線(大府)と呼ばれていた。この中では八田操車場と南方貨物線がもっとも有力視され、1941年(昭和16年)から翌年にかけて東海道本線大府 - 枇杷島間の線増扱いで測量費が予算計上され、地形測量が実施された。 一方、鉄道省名古屋鉄道局運輸部でも岐阜工事事務所の計画と前後して貨車中継の改良計画を立てていたが、むやみに操車場を新設するのは貨車の輸送効率の面で不利であり、同局では稲沢操車場にハンプを2か所設ける一大ヤードとする案を推していた。このため八田操車場の新設は省内も賛否両論であったが、最終的には稲沢・八田の2操車場案でまとまり、1943年(昭和18年)以降も南方貨物線・八田操車場の建設を推進することとなった。しかし、戦争の激化により同年以降は予算計上できず、計画はいったん棚上げとなった。
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