なごや‐じけん【名古屋事件】
名古屋事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 07:46 UTC 版)

名古屋事件(なごやじけん)は、1884年(明治17年)12月、加波山事件後解党していた旧自由党の党員が起こした政府転覆未遂事件。
概要
名古屋の自由党員の組織であった「公道協会」の会員らを中心として、軍資金調達のために富豪からの強盗・紙幣偽造が企てられた[1]。これは政府転覆計画を実行に移すための資金であった[2]。強盗は実際に実行犯20人により、50数回ほど実行に移された[2]。1884年(明治17年)8月、愛知県西春日井郡(現名古屋市西区)の平田橋付近において、警邏中だった巡査と実行犯らが遭遇し、この巡査2人を殺害する事件を起こす[2]。この事件には、当時名古屋来遊中であった奥宮健之も関与している[2]。また、同年12月、同県知多郡長草村(現大府市)役場において、国税を奪う事件を引き起こしている[2]。この2事件により、10月以降実行犯らが次々と検挙されることとなった[1]。3名が死刑、20名が無期懲役など(うち、7名が無期徒刑、16名が有期徒刑[1])に処された[2]。ただし、彼らは政府転覆を企てた罪ではなく、単なる強盗犯・殺人犯として処罰された[2]。1897年(明治30年)に特赦が行われた[1]。
関連文献
- 長谷川昇『博徒と自由民権――名古屋事件始末記』 中公新書、1977年/平凡社ライブラリー、1995年
- 高橋敏『博徒の幕末維新』 ちくま新書、2004年
- 徳永真一郎『明治の逆徒』収録「名古屋事件」毎日新聞社、1982年
脚注
参考文献
- 長谷川昇「名古屋事件」『愛知百科事典』中日新聞社、1976年、601頁。ASIN B000J8CY8E。
- 朝尾直弘・宇野俊一・田中琢 編「名古屋事件」『角川新版日本史辞典』(第3版)角川書店、2005年12月20日、788頁。ISBN 4-04-032000-X。
名古屋事件
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「永山則夫連続射殺事件」の記事における「名古屋事件」の解説
名古屋事件の現場地図(愛知県名古屋市港区七番町一丁目1番地) 永山は函館事件後に函館から横浜へ帰ったが、横浜市から愛知県名古屋市へ逃亡した。そして1968年11月5日未明に名古屋市港区七番町一丁目1番地(「株式会社竹中工務店名古屋製作所」南側路上)でタクシー運転手・男性D(事件当時22歳・八千代タクシー株式会社運転手)を射殺し、売上金などを奪った(第4の殺人・強盗殺人事件)。 横浜へ帰った永山は拳銃を市内の空き地に埋めて隠した上で1週間ほど沖仲仕として働いたが、逮捕の危険を感じたために名古屋で働くことを決め、11月2日に拳銃を掘り出した。そして拳銃に実包6発を込めた上で名古屋へ向かい、翌日(11月3日)朝に名古屋駅へ至ると、同日から翌日(11月4日)まで市内を見物したり、映画を見たりなどして時間を過ごした。同日夜遅く、永山は翌朝の沖仲仕の仕事を見つけるために同市中川区内の路上を名古屋港方面へ向けて歩いていたが、翌日(11月5日)1時20分ごろに被害者Dが運転するタクシーが近づいてきて、運転手Dから「どこへ行くの」と声を掛けられた。永山が「港へ行く」と答えたところ、Dがタクシーのドアを開けたため、永山はタクシーに乗車したが、車内でDから「港へ何をしに行く?今行っても何もないよ」と言われた。永山は「港で働く」と答えたが、Dから「あんた東京の人でしよう。今晩どうする?」と聞かれたため、とっさに「自分を東京の人間と知っている以上、Dをそのままにしておけば、(それまでに3件の殺人を犯した)自分の足取りなどを警察に伝えられ、自分が逮捕されることにつながるかもしれない」と考えた。加えて、当時は所持金が約2,000円余りしかなかったため、永山は「Dを拳銃で射殺し、金を奪って逃げよう」と決意し、犯行に適する場所を求めてタクシーを走行させた。 そして1時25分ごろ、永山は現場の路上でタクシーを停車させると、車内で隠し持っていた拳銃を突然取り出してDの頭部などを4回狙撃し、Dの所持していた売上金など(現金7,000円余り)が入った布袋1枚などを奪い、走って名古屋駅方面へ逃走しようとしたが、途中で見つけた材木屋に入って材木の間に隠れて朝まで休み、布袋・腕時計の壊れた鎖バンドをその場に捨てた。被害者Dは右側頭部・後頭部・左前額部・左側頭部にそれぞれ盲貫射創を負い、同日6時20分ごろに中部労災病院(名古屋市港区港明町一丁目31番地)で死亡した。 遺体を司法解剖した結果、被害者Dの体内から鉛弾計4発が発見され、科学警察研究所で鑑定すると東京・京都両事件と同じ箇所に線条痕が確認されたため、本事件も同一犯と断定された。これを受けて愛知県警察特別捜査本部はタクシー・宿舎関係・船員・指紋などを重点的に捜査したほか、全県下のホテル・旅館など宿泊施設の宿泊客を調べて犯人の足取りを追った。一方、堀川 (2009) は「永山はそれまでの3件とは異なり、この時に初めて被害者が流血するところを見た。それ以降は引き金を引けなくなった」と述べている。
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