激化事件と運動の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:57 UTC 版)
「自由民権運動」の記事における「激化事件と運動の衰退」の解説
大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。 こうした背景のもとに1881年(明治14年)には秋田事件、1882年(明治15年)には福島事件、1883年(明治16年)には高田事件、1884年(明治17年)には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886年(明治19年)には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した。また、大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は1885年(明治18年)1月15日に爆発物取締罰則を施行した。 1884年には自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど打撃を受けた。
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