激化する煙害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
日立鉱山のような銅鉱山における煙害とは、主に鉱石中に含まれる硫黄が製錬時に亜硫酸ガスとなって排出されることにより、鉱山周辺の農地や山林に被害を与える現象である。また亜硫酸ガス以外に鉱石や金属が粉末化して排煙中に混じって排出され、それらもまた農地や山林に被害を及ぼす。銅鉱石の場合、鉱石中の硫黄分は20パーセントから35パーセントであり、当時、日立鉱山の鉱石と他の鉱山から買鉱によって入手した鉱石の硫黄分の平均は、約25パーセントであった。この鉱石中の硫黄分のうち、約4分の3が亜硫酸ガスとなって排出された。 前述のように1908年(明治41年)11月に本山から大雄院へ製錬機能の移転が始まり、その後大雄院での製錬機能が急ピッチで強化されていく。しかし製錬体制の強化とは対照的に煙害対策は全く進められず、結果として大雄院での生産拡大はそのまま煙害の激化へと繋がることになった。煙害は被害状況の深刻化とともに、被害地域も拡大していった。本山で製錬が行われていた時代には、煙害は本山近くの当時の中里村、日立村に限られていたものが、1909年(明治42年)から1910年(明治44年)になると農作物の被害は当時の1町6村に広がり、被害作物もソバ、タバコ、クワそして各種の野菜や果物類に広がった。また山林の被害は農作物の被害地域を上回る1町8村に及んでいた。 煙害の加害者である日立鉱山側は、煙害の原因は製錬に伴って排出される亜硫酸ガスであることを認め、1909年(明治42年)1月には日立鉱山庶務課内に煙害調査と被害補償について担当する地所係を置いた。このように鉱山側が煙害問題発生後、早期に被害補償に乗り出した理由としては、当時足尾銅山などの鉱害問題が大きな社会問題化していたことと、前述のように日立鉱山の前身である赤沢銅山時代に、鉱害の被害に対して補償を行う慣行があったこと、そして江戸時代からの経緯があって、地域住民たちの鉱害に対する意識が高かったことが挙げられる。 しかし被害地域の拡大と深刻化が進む中で、1910年(明治43年)以降、煙害に対する抗議の声が高まっていった。1911年(明治44年)1月には煙害被害地域の2町8村の町村長、郡会議員、地主などは煙害対策協議会を結成し、同年2月には開会中の第27回帝国議会に、煙害被害民代表119名が日立鉱山の煙害補償額に対する不満とともに、早急な煙害対策を求める請願を提出した。この頃になると激化する煙害は日立鉱山そのものの操業にも悪影響を及ぼすようになっていた。鉱山周辺の山林は煙害の影響で木が枯れ果て、茅が生えるだけか裸地と化していた。そのため土砂崩落や茅地の火事が頻発し、鉱山施設の操業に大きな支障をきたすようになっていたのである。このような状況下で日立鉱山は煙害対策に本腰を入れざるを得なくなった。
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