激化した1945年の空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 23:34 UTC 版)
「名古屋大空襲」の記事における「激化した1945年の空襲」の解説
空襲は、当初は日中の高高度戦略爆撃により軍関連の工場や名古屋港などの産業施設へ通常爆弾による精密爆撃を中心に行われていたが、命中率の低さから成果を上げられず、1945年(昭和20年)1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなった。 3月12日未明、B-29爆撃機200機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、105,093人が罹災した。死者519人、負傷者734人に上り、家屋25,734棟が被災し、市街の5%が焼失したとされる。 3月19日午前2時頃、B-29爆撃機230機による名古屋市の市街地に対する大規模空襲が行われ、151,332人が罹災した。死者826人、負傷者2,728人に上り、家屋39,893棟が被災した。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年(昭和12年)に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅の焼け焦げた姿が遠くからでもよく見えたという。 5月14日、B-29爆撃機440機による空襲で旧国宝の名古屋城が炎上、家屋21,905棟が被災した。66,585人が罹災し、死者338人、負傷者783人に上ったが、これ以降に撃墜されたB-29の搭乗員は、戦時国際法違反(非戦闘員に対する無差別爆撃)の戦争犯罪で斬首死刑が執行されている。6月9日には熱田空襲が行われ、愛知時計電機・愛知航空機の社員や動員学徒を含む2,068人の死者を出した。7月26日にエノラ・ゲイによる八事日赤病院付近への模擬原爆(パンプキン爆弾)投下を最後に63回の空襲が行われ、B29の来襲は2,579機に達した。投下された爆弾の総量は14,000トンに上り、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及び、名古屋市は日本の他の大都市と同様に壊滅的に破壊された。
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