激動の時代の政治詩とは? わかりやすく解説

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激動の時代の政治詩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:02 UTC 版)

ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ」の記事における「激動の時代の政治詩」の解説

ウィーン宮廷を後にしたヴァルター様々な王侯のために歌を作り歌った。ヴァルターはある詩(L. 31,13)の冒頭で「セイヌからムールまでを私はよく見たポーからトラーベまでの人々暮らし方もよく知っている」(村尾訳)と歌っている。この河川名ヴァルター旅行実際範囲を示すものとすれば、「セイヌ」(Seine)はフランスセーヌ川で西の境界、「ポー」(Pfât, Phât)はイタリアポー川 で南の境界を表わしていることは明かである。「ムール」(Muore)がグラーツ等を流れシュタイアーマルクムール川die Mur)で東の境界、「トラーベ」(Trabe)はリューベック近く流れるトラーヴェ川(die Trave)で北の境界表していると思われる。もっとも、詩人がこの詩の冒頭で4河川挙げたのは、自分様々な地方人情通じている、と言うための修辞的表現かもしれないが、聴衆には4河川とも馴染みのものであった推測される王侯との関わりにおいて、後世への影響観点から最も重要なのは、テューリンゲン方伯ヘルマン1世宮廷滞在したことであろう。ある詩(L. 35,7)においては、「私はお気前良い方伯家臣」(村尾訳)とその幸福感素直に表明している。1207年ヴァルトブルク城での歌合戦ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハと共に参加していたとされる伝説は、リヒャルト・ワーグナーオペラタンホイザー」にもつながっていく。また、マイセン辺境伯ディートリヒのためにも称賛の歌を歌ったケルンテン公ベルンハルト2世Bernhard II., Herzog von Kärnten; 在位1206年-1256年)とその宮廷人に対する不満を表す詩(L. 32,17L. 32,27)も残されている。その他に日本においてもよく知られている「世界遺産 ロマンティック・ライン ライン渓谷中流上部」の「ねこ城」(Burg Katz)こと「ノイカッツェンエルンボーゲン」(Neukatzenelnbogen)城と関係の深いカッツェンエルンボーゲン伯(Graf von Katzenelnbogen)に宛てた歌もある。 ヴァルター政治詩は政治的混乱期政争深く関わる作品である。1197年9月28日ホーエンシュタウフェン家出身神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の死が、神聖ローマ帝国ローマ教皇の間に決定的な亀裂もたらした時、ヴァルター前者の側に立ち、後者に対して痛烈な攻撃行ったハインリヒ 6 世死後ドイツ諸侯その 3 歳の息子フリードリヒ1194年 - 1250年;後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)をローマ王ドイツ王)に選出したが、教皇承認しなかったため、王位めぐってホーエンシュタウフェン家出身のフィリップ・フォン・シュヴァーベン(1176年 - 1208年ハインリヒ6世の弟)とヴェルフェン家出身のオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク(1177年 - 1218年;後の神聖ローマ皇帝オットー4世)が争い帝国荒廃したフィリップは、1198年 3 月 8 日ローマ王ドイツ王)に選ばれ9月8日にはマインツ戴冠式が行われたが、ヴァルターその間フィリップ支持の歌を歌った 。しかし、1208年6月21日フィリップ暗殺されてしまう。1208年11月11日オットーフランクフルトにおいて満場一致国王選出され1209年9月27日サンピエトロ寺院教皇によって皇帝戴冠を受ける。ヴァルターローマからドイツ帰還するオットー皇帝呼びかけ歓迎するその後期待裏切られたと感じた教皇1210年11月11日オットー破門するヴァルターはこの態度非難して教皇の口には二枚舌があると歌う。教皇1213年十字軍のために教会に置かせた献金箱については、ドイツ人の富を集めて教皇教皇庁豊かにする装置非難する歌(L. 34,4とL. 34,14)を歌っている。オットー4世1214年ブーヴィーヌの戦いにおいて惨敗するヴァルターその後フリードリヒ2世のために歌う。もっとも、このようなヴァルター態度は「変節」ととるべきではなく、「王位皇帝位目指す者を支持する諸侯間の合従連衡激変反映しているだけ」(≫In Walthers Verhalten spiegelt sich nur der rasche Wechsel der Fürstenkoalitionen, von denen die Bewerber um die Krone unterstützt wurden. ≪)と見なすべきである。皇帝教皇対立したヴァルター教皇批判立場貫いたが、アクイレイア司教座教会参事会会員トマズィン・フォン・ツェルクレーレ(Thomasin von Zerklaere, Tomasinus de Cerklara)は『異国の客』(Der Welsche Gast, Der Wälsche Gast)(1215/16年)において、ヴァルター教皇批判の歌で「千人もの人々混乱させた」(≫… tûsent man betoeret hât. ≪)と非難している。ドイツ諸侯宮廷でのヴァルター影響大きさ物語証言と言えよう。 やがて、ヴァルター才能帝国への熱意新皇フリードリヒ2世認めるにいたり、フランケン地方小さな封土(「その価値微々たるもの」と彼は不満だったが)を賜り、彼は長年欲していた定住の地を得ることができた。フリードリヒ2世が彼を息子ハインリヒ教育者にしたかどうかは不明であるが、ヴァルターハインリヒ教育者として(あるいは、それとしての作中主体立場で)、「野生のままで育った子 お前は少しも素直ではない ...(お前の教育は)お手上げだ」と歌ったL. 101,23)ほか、ハインリヒ離婚動き関わる歌(L. 102,1)も作詞している。

※この「激動の時代の政治詩」の解説は、「ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ」の解説の一部です。
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