激動の時代の政治詩
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「ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ」の記事における「激動の時代の政治詩」の解説
ウィーン宮廷を後にしたヴァルターは様々な王侯のために歌を作り歌った。ヴァルターはある詩(L. 31,13)の冒頭で「セイヌからムールまでを私はよく見た、ポーからトラーベまでの人々の暮らし方もよく知っている」(村尾訳)と歌っている。この河川名がヴァルターの旅行の実際の範囲を示すものとすれば、「セイヌ」(Seine)はフランスのセーヌ川で西の境界、「ポー」(Pfât, Phât)はイタリアのポー川 で南の境界を表わしていることは明かである。「ムール」(Muore)がグラーツ等を流れるシュタイアーマルクのムール川(die Mur)で東の境界、「トラーベ」(Trabe)はリューベックの近くを流れるトラーヴェ川(die Trave)で北の境界を表していると思われる。もっとも、詩人がこの詩の冒頭で4河川を挙げたのは、自分は様々な地方の人情に通じている、と言うための修辞的表現かもしれないが、聴衆には4河川とも馴染みのものであったと推測される。 王侯との関わりにおいて、後世への影響の観点から最も重要なのは、テューリンゲン方伯ヘルマン1世の宮廷に滞在したことであろう。ある詩(L. 35,7)においては、「私はお気前の良い方伯の家臣」(村尾訳)とその幸福感を素直に表明している。1207年ヴァルトブルク城での歌合戦にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハらと共に参加していたとされる伝説は、リヒャルト・ワーグナーのオペラ「タンホイザー」にもつながっていく。また、マイセン辺境伯ディートリヒのためにも称賛の歌を歌った。ケルンテン公ベルンハルト2世(Bernhard II., Herzog von Kärnten; 在位1206年-1256年)とその宮廷人に対する不満を表す詩(L. 32,17とL. 32,27)も残されている。その他に、日本においてもよく知られている「世界遺産 ロマンティック・ライン ライン渓谷中流上部」の「ねこ城」(Burg Katz)こと「ノイカッツェンエルンボーゲン」(Neukatzenelnbogen)城と関係の深いカッツェンエルンボーゲン伯(Graf von Katzenelnbogen)に宛てた歌もある。 ヴァルターの政治詩は政治的混乱期の政争に深く関わる作品である。1197年9月28日のホーエンシュタウフェン家出身の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の死が、神聖ローマ帝国とローマ教皇の間に決定的な亀裂をもたらした時、ヴァルターは前者の側に立ち、後者に対して痛烈な攻撃を行った。 ハインリヒ 6 世の死後、ドイツ諸侯はその 3 歳の息子フリードリヒ(1194年 - 1250年;後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)をローマ王(ドイツ王)に選出したが、教皇が承認しなかったため、王位をめぐってホーエンシュタウフェン家出身のフィリップ・フォン・シュヴァーベン(1176年 - 1208年;ハインリヒ6世の弟)とヴェルフェン家出身のオットー・フォン・ブラウンシュヴァイク(1177年 - 1218年;後の神聖ローマ皇帝オットー4世)が争い、帝国は荒廃した。フィリップは、1198年 3 月 8 日にローマ王(ドイツ王)に選ばれ、9月8日にはマインツで戴冠式が行われたが、ヴァルターはその間、フィリップ支持の歌を歌った 。しかし、1208年6月21日、フィリップが暗殺されてしまう。1208年11月11日、オットーはフランクフルトにおいて満場一致で国王に選出され、1209年9月27日、サンピエトロ寺院で教皇によって皇帝の戴冠を受ける。ヴァルターはローマからドイツに帰還するオットーに皇帝と呼びかけて歓迎する。その後、期待を裏切られたと感じた教皇は1210年11月11日オットーを破門する。ヴァルターはこの態度を非難して、教皇の口には二枚舌があると歌う。教皇が1213年に十字軍のために教会に置かせた献金箱については、ドイツ人の富を集めて教皇と教皇庁を豊かにする装置と非難する歌(L. 34,4とL. 34,14)を歌っている。オットー4世は1214年のブーヴィーヌの戦いにおいて惨敗する。ヴァルターはその後、フリードリヒ2世のために歌う。もっとも、このようなヴァルターの態度は「変節」ととるべきではなく、「王位・皇帝位を目指す者を支持する諸侯間の合従連衡の激変が反映しているだけ」(≫In Walthers Verhalten spiegelt sich nur der rasche Wechsel der Fürstenkoalitionen, von denen die Bewerber um die Krone unterstützt wurden. ≪)と見なすべきである。皇帝と教皇が対立した際ヴァルターは教皇批判の立場を貫いたが、アクイレイアの司教座教会参事会会員トマズィン・フォン・ツェルクレーレ(Thomasin von Zerklaere, Tomasinus de Cerklara)は『異国の客』(Der Welsche Gast, Der Wälsche Gast)(1215/16年)において、ヴァルターは教皇批判の歌で「千人もの人々を混乱させた」(≫… tûsent man betoeret hât. ≪)と非難している。ドイツ諸侯の宮廷でのヴァルターの影響の大きさを物語る証言と言えよう。 やがて、ヴァルターの才能と帝国への熱意を新皇帝フリードリヒ2世が認めるにいたり、フランケン地方の小さな封土(「その価値は微々たるもの」と彼は不満だったが)を賜り、彼は長年欲していた定住の地を得ることができた。フリードリヒ2世が彼を息子ハインリヒの教育者にしたかどうかは不明であるが、ヴァルターはハインリヒの教育者として(あるいは、それとしての作中主体の立場で)、「野生のままで育った子 お前は少しも素直ではない ...(お前の教育は)お手上げだ」と歌った(L. 101,23)ほか、ハインリヒの離婚の動きに関わる歌(L. 102,1)も作詞している。
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