初公判以降
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「神戸市北区5人殺傷事件」の記事における「初公判以降」の解説
2021年10月14日(第2回公判)には、Tの母親Dが証人として出廷した。事件当時Tは、あいさつに反応せず、女性用Tシャツを借りたがるなど「少しいつもと違う」と感じたと明かした。また、Tに殺害された祖父母A・Bとの関係は悪くなかったと答えた。最後にDは、被害者や遺族らに謝罪し、「優しくて真面目だった息子がなぜこんな事件を起こしたのか」と声を震わせた。
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初公判以降
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「永山則夫連続射殺事件」の記事における「初公判以降」の解説
初公判は1969年8月8日に東京地裁刑事第5部(堀江一夫裁判長)で開かれ、被告人・永山は罪状認否においてほぼ全面的に起訴事実を認めたが、以下のように供述した。 殺人2件(東京事件・京都事件) - 東京事件に関しては「初めから被害者Aへの殺意を有してはおらず、逃げたい一心から撃った」と供述して殺意を否認した一方、京都事件については「間違いない」と認めた。 強盗殺人2件(函館事件・名古屋事件) - 函館事件は「金が欲しかったから」と認めたが、名古屋事件に関しては「売上金などを奪う気になったのは拳銃を撃った後」と述べ、強盗の犯意を否認した。 そのほか横須賀海軍施設における窃盗事件や原宿事件(殺人未遂・拳銃および銃弾の不法所持)については「間違いない」と認めた。 検察官による冒頭陳述は次回公判へ持ち越され、続く第2回公判(1969年9月8日)で弁護人(主任弁護人:助川武男)は4件の殺人事件について以下のように全面的に殺意を否認したほか、「横須賀海軍施設から拳銃などが盗まれた事件は永山の犯行ではない疑いがある」と主張した。 殺人2件(東京事件・京都事件) - 東京事件については永山本人の罪状認否と同様に「殺意はなく、永山は逃走しようとした時に狙いも定めず拳銃を撃った。拳銃は小さくて玩具のような印象しかなく、永山は『人を殺害するほどの威力がある』とは考えていなかった」と、京都事件についても「拳銃の威力を誤信しており殺意はなかった」と主張した。 強盗殺人2件(函館事件・名古屋事件) - 検察官は両事件について包括的な「強盗殺人」の犯意を主張しているが、いずれも偶発的なもので、包括的な犯意の存在は認められない。函館事件については客観的事実を含めて疑念があるほか、名古屋事件では永山に確定的な殺意はなかったと考えられ、財物奪取の犯意は被害者Dが仮死状態に陥ってから生じた(=初めから強取の犯意はなかった)。 原宿事件に関しては被害者Eへの殺意は否認したが、拳銃・銃弾の不法所持は認めた。 1969年10月7日に第3回公判が開かれ、検察官は捜査員による「実況見分調書」「捜査報告書」を証拠申請したが、公判廷で証人を尋問して証言を得ることを目論んだ弁護人はそれらの証拠採用を全て不同意とし、裁判所による現場検証を希望した。仮にそれぞれの現場を検証し、関係する証人を尋問すれば出張先は広範囲にわたり、旅費・宿泊費なども弁護団(私選弁護人3人)が自腹で負担することになるが、初公判後の「永山の犯罪は社会のひずみが生んだもので、それを立証する裁判にしたい」というコメントに沿った弁護方針だった。同年10月20日に開かれた第4回公判では警視庁の捜査員5人が検察側の証人として出廷し、横須賀海軍施設における窃盗事件の捜査状況および、永山が「拳銃を試射した」とされる三笠公園における実況見分などについてそれぞれ証言した。その後、11月4日には横須賀市内で東京地裁の裁判官が現場検証・出張尋問を行い、同月18日には東京プリンスホテルの現場検証・弁護側が申請した証人への出張尋問を実施し、12月9日の第5回公判でそれぞれの調書要旨が朗読された。 1969年12月22日に第6回公判が開かれ、弁護人による永山への被告人質問が行われた。永山は弁護人に対し「4人とも自分が殺した」と証言したが、弁護人から東京事件について初公判で「殺意はなかった」と証言した旨について質問されたところ、「自分は被害者Aを殺すつもりはなかったが、相手が出てきた。小さな拳銃に殺傷力があるとは思わなかった」と述べたが、さらに弁護人から踏み込んだ質問をされると突然怒鳴り出し、被告人質問はわずか20分後に閉廷した。その後、証拠調べは以下のように進んだ。 第7回公判[1970年(昭和45年)1月13日] - 京都事件について弁護人が同意した供述調書(警察官・検察官が作成)が証拠採用された。2月6日には京都事件の現場周辺(八坂神社・丸山公園の周辺)で現場検証が行われた後、京都地方裁判所の法廷で被害者Bの同僚(八坂神社の警備員)への出張尋問がなされた。 第8回公判(1970年2月25日) - 6日に実施した京都事件の検証調書・尋問調書が取り調べられ、永山は裁判長から「調書について何か述べることは?」と問われ「ない」と答えた。 第9回公判(1970年3月13日) - 函館事件の調書(被害者Cの妻・同僚の供述調書)が取り調べられ、永山は裁判長からの質問に対し「(質店から任意提出され押収した)チャコールグレーの背広上下は函館事件の時に着用していたものだ」と認めたほか、「殺したことは確かに悪いことだが、被害者は苦しまず死んだと思う。それだけは遺族に伝えてほしい」と述べた。その後、4月16日には東京地裁の裁判官が函館市・亀田郡七飯町でそれぞれ現場検証を行い、翌日(4月17日)に函館地方裁判所で函館中央署の警視に対し出張尋問を行った。 第10回公判(1970年5月12日) - 永山は函館事件に関する検証・尋問の調書について「(4事件の中で)函館事件が一番ひどかったと思っているので、この言葉を捧げたい。『月の真砂は尽きるとも 資本主義のあるかぎり 世に悲惨な事件は尽きまじ』」と述べた。 第11回公判(1970年5月22日) - 名古屋事件の書類証拠・物的証拠が取り調べられたが、永山は被害者の被弾状況を示す首上マネキン・解剖状況写真・摘出した弾丸などを「見たくない」と拒否した。同日、永山は裁判長から「初公判で述べた『拳銃を撃つまで売上金などを奪う気はなかった』という言葉は警察署・検察庁における供述と矛盾する」と指摘され、「(取り調べを担当した)坂巻検事に述べたことが本当だ」と述べた。 1970年6月30日に開かれた第12回公判では名古屋事件の現場検証・証人尋問(いずれも6月5日実施)の調書が取り調べられた。同日、永山は裁判長に対し「俺のような男をどう思うか」と質問し、裁判長から「どう思うか問われても今はいえない。裁判所の意見は判決で述べるので、途中で意見を言うことはできない」と回答されたが、「このような事件を起こしたのは、当時の自分が貧乏で無知だったからだ。何もかもが憎くてやった。資本主義社会が自分のような貧乏な人間を作るから自分はここにいる」と述べ、『犯罪と経済状態』(ウィリアム・ボンガー著 / 河上肇著・岩波文庫『貧乏物語』に収録)の一節「貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人との間におけるいっさいの関係を破壊し去る。すべての人々により捨てられた人は、かかる境遇に彼を置き去りにせし人々に対しもはやなんらの感情ももち得ぬものである」を英語(原文)で暗唱した。その後、同年8月14日の第14回公判で永山は裁判長から次回公判(8月26日・第15回公判)での発言を許可され、同公判では「(犯行の動機は)貧乏が憎かったから東京プリンスホテルへ行ったら、偶然ガードマン(被害者A)が出てきてああいうことになった。それ以降は惰性でやった。死刑は怖くないし、情状してもらいたくはない。情状なんかしても被害者4人と(死刑になる)自分の命は帰らないが、あの事件を起こしたことで東拘大で勉強し、『なぜ自分のような者が生まれたのか』をわかることができたから、事件を起こして良かったと思う。自分は死刑になっても構わないが、自分のような輩を二度と出さないような社会にしてほしい」と陳述した。この時期から永山に対し、世論からは「永山は死刑が怖いから社会に責任転嫁している」との批判が強くなっていったが、永山本人は同年9月10日の日記で「自分にはもう(面会に来てくれない)兄姉というものを考えなくてもいいと、激情あるいは憎悪に駆られてあのような言葉を言った」と述べている。同日の公判で弁護人は大量の情状証人の申請をしたほか、同時に精神鑑定を申請したが、いずれも採否は留保された。 第16回公判(1970年9月22日)で検察官が弁護人による情状証人の採用に同意し、精神鑑定も第18回公判(同年12月23日)で東京地裁が採用を決定した。(1回目の)精神鑑定は新井尚賢(東邦大学医学部教授)が鑑定人として指定され、新井は1971年(昭和46年)1月14日の第19回公判で「鑑定書提出までに4か月程度を要する」と表明した。同年2月3日、永山は精神鑑定を受けるため東京拘置所(旧:巣鴨プリズン)から財団法人愛誠病院(板橋区加賀)へ移送され、精神神経科病棟へ鑑定留置された。鑑定留置は2月10日まで続き、その後も新井は永山の実母(青森県板柳町)を訪問して弘前精神病院に入院中の長姉・母系の親族らと面接したり、栃木県の長兄や東京の親族、就職先の雇い主らと会って客観的資料を収集した。 鑑定人・新井は同年5月16日になって東京地裁刑事第5部に「永山則夫精神鑑定書」を提出した。その鑑定主文は「犯行時および現在の永山の精神状態には狭義の精神病を思わせる所見はないが、情意面の偏りがある程度認められる」というもので、新井は第23回公判(同年5月27日)における尋問で、弁護人から「永山は『非常に高い金属的な音の耳鳴りに悩まされている』と訴えているが、これはどのような原因か」と質問され「神経症的なものだろう」と回答した。また弁護人は「永山は『共産革命で世の中が変わる』などの発言をしており、その言動から『妄想知覚』のようなものが感じられるが?」と質問したが、新井は「妄想気分と言われるものとは違うだろう」と回答した。その後、永山の著書『無知の涙』(同年3月10日に初版発行)の版元・合同出版の編集長である野田祐次が証言し、読者からの反響を読み上げたほか、自ら函館事件の被害者Cの遺児宛に現金を持参した(領収書日付:同年5月18日)ことなどを証言した。編集長の証言後、永山は裁判長から発言を許可され「出版の目的は金ではなく、自分の思想だ。こういう(資本主義の)社会体制だから金は必ず入るが、自分は(金を)地獄へ持っていけないから、『遺族にやってくれ』ということだ。」と陳述した。 『無知の涙』を刊行して以降、永山には法廷外で多数の支援者(ジャーナリスト・作家・社会学者・編集者など)が付くようになった。彼ら支援者たちは永山の延命を図り、その主張を法廷で述べさせるために「公判対策会」を結成したほか、永山に対し「今の公判は検察のペースに乗せられているから、弁護団を解任することで永山・弁護団ペースに逆転することができる」と教え、永山が弁護団を解任するきっかけとなった。
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