初公判以降とは? わかりやすく解説

初公判以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 02:08 UTC 版)

神戸市北区5人殺傷事件」の記事における「初公判以降」の解説

2021年10月14日第2回公判)には、Tの母親Dが証人として出廷した事件当時Tは、あいさつ反応せず、女性用Tシャツ借りたがるなど「少しいつもと違う」と感じた明かしたまた、Tに殺害され祖父母A・Bとの関係は悪くなかった答えた最後にDは、被害者遺族らに謝罪し、「優しくて真面目だった息子がなぜこんな事件起こしたのか」と声を震わせた

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初公判以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 12:02 UTC 版)

永山則夫連続射殺事件」の記事における「初公判以降」の解説

初公判1969年8月8日東京地裁刑事第5部堀江一夫裁判長)で開かれ被告人永山罪状認否においてほぼ全面的に起訴事実認めたが、以下のように供述した殺人2件(東京事件京都事件) - 東京事件に関しては「初めから被害者Aへの殺意有してはおらず逃げたい一心から撃った」と供述し殺意否認した一方京都事件については「間違いない」と認めた強盗殺人2件(函館事件名古屋事件) - 函館事件は「金が欲しかったから」と認めたが、名古屋事件に関しては「売上金などを奪う気になったのは拳銃撃った後」と述べ強盗犯意否認したそのほか横須賀海軍施設における窃盗事件原宿事件殺人未遂拳銃および銃弾不法所持)については「間違いない」と認めた検察官による冒頭陳述次回公判持ち越され、続く第2回公判1969年9月8日)で弁護人主任弁護人助川武男)は4件の殺人事件について以下のように全面的に殺意否認したほか、「横須賀海軍施設から拳銃などが盗まれ事件永山犯行ではない疑いがある」と主張した殺人2件(東京事件京都事件) - 東京事件については永山本人罪状認否同様に殺意はなく、永山逃走しようとした時に狙い定めず拳銃撃った拳銃小さくて玩具のような印象しかなく、永山は『人を殺害するほどの威力がある』とは考えていなかった」と、京都事件についても「拳銃威力誤信しており殺意はなかった」と主張した強盗殺人2件(函館事件名古屋事件) - 検察官は両事件について包括的な強盗殺人」の犯意主張しているが、いずれも偶発的なもので、包括的な犯意存在認められない函館事件については客観的事実含めて疑念があるほか、名古屋事件では永山確定的な殺意はなかったと考えられ財物奪取犯意被害者Dが仮死状態に陥ってから生じた(=初めから強取犯意はなかった)。 原宿事件に関して被害者Eへの殺意否認したが、拳銃銃弾不法所持認めた1969年10月7日第3回公判開かれ検察官捜査員による「実況見分調書」「捜査報告書」を証拠申請したが、公判廷証人尋問して証言を得ることを目論んだ弁護人はそれらの証拠採用全て不同意とし、裁判所による現場検証希望した。仮にそれぞれの現場検証し関係する証人尋問すれば出張先は広範囲にわたり、旅費宿泊費なども弁護団私選弁護人3人)が自腹負担することになるが、初公判後の「永山犯罪社会のひずみが生んだもので、それを立証する裁判にしたい」というコメント沿った弁護方針だった。同年10月20日開かれた第4回公判では警視庁捜査員5人が検察側の証人として出廷し、横須賀海軍施設における窃盗事件捜査状況および、永山が「拳銃試射した」とされる三笠公園における実況見分などについてそれぞれ証言したその後11月4日には横須賀市内で東京地裁裁判官現場検証出張尋問行い同月18日には東京プリンスホテル現場検証弁護側が申請した証人への出張尋問実施し12月9日第5回公判それぞれの調書要旨朗読された。 1969年12月22日第6回公判開かれ弁護人による永山への被告人質問が行われた。永山弁護人対し「4人とも自分殺した」と証言したが、弁護人から東京事件について初公判で「殺意はなかった」と証言した旨について質問されたところ、「自分被害者Aを殺すつもりはなかったが、相手出てきた。小さな拳銃殺傷力があるとは思わなかった」と述べたが、さらに弁護人から踏み込んだ質問をされると突然怒鳴り出し被告人質問はわずか20分後に閉廷したその後証拠調べは以下のように進んだ第7回公判1970年昭和45年1月13日] - 京都事件について弁護人同意した供述調書警察官検察官作成)が証拠採用された。2月6日には京都事件現場周辺八坂神社丸山公園周辺)で現場検証が行われた後、京都地方裁判所法廷被害者Bの同僚八坂神社警備員)への出張尋問なされた第8回公判1970年2月25日) - 6日実施した京都事件検証調書尋問調書取り調べられ永山裁判長から「調書について何か述べることは?」と問われ「ない」と答えた第9回公判1970年3月13日) - 函館事件調書被害者Cの妻・同僚供述調書)が取り調べられ永山裁判長からの質問対し「(質店から任意提出され押収したチャコールグレー背広上下函館事件時に着用していたものだ」と認めたほか、「殺したことは確かに悪いことだが、被害者苦しまず死んだと思う。それだけ遺族伝えてほしい」と述べたその後4月16日には東京地裁裁判官函館市亀田郡七飯町それぞれ現場検証行い翌日4月17日)に函館地方裁判所函館中央署の警視対し出張尋問行った第10回公判1970年5月12日) - 永山函館事件に関する検証尋問調書について「(4事件の中で)函館事件が一番ひどかった思っているので、この言葉捧げたい。『月の真砂尽きるとも 資本主義あるかぎり 世に悲惨な事件尽きまじ』」と述べた第11回公判1970年5月22日) - 名古屋事件書類証拠・物的証拠が取り調べられたが、永山被害者被弾状況を示す首上マネキン解剖状況写真摘出した弾丸などを「見たくない」と拒否した同日永山裁判長から「初公判述べた拳銃を撃つまで売上金などを奪う気はなかった』という言葉警察署検察庁における供述矛盾する」と指摘され、「(取り調べ担当した坂巻検事述べたことが本当だ」と述べた1970年6月30日開かれた第12回公判では名古屋事件現場検証証人尋問いずれも6月5日実施)の調書取り調べられた。同日永山裁判長対し俺のような男をどう思うか」と質問し裁判長から「どう思うか問われても今はいえない裁判所の意見判決述べるので、途中で意見を言うことはできない」と回答されたが、「このような事件起こしたのは、当時自分が貧乏で無知だったからだ。何もかも憎くてやった。資本主義社会自分のような貧乏な人間作るから自分はここにいる」と述べ、『犯罪経済状態』(ウィリアム・ボンガー著 / 河上肇著・岩波文庫貧乏物語』に収録)の一節「貧乏は人の社会的感情殺し、人と人との間におけるいっさいの関係を破壊し去る。すべての人々により捨てられた人は、かかる境遇に彼を置き去りにせし人々対しもはやなんらの感情ももち得ぬのである」を英語(原文)で暗唱したその後同年8月14日第14回公判永山裁判長から次回公判8月26日第15回公判)での発言許可され、同公判では「(犯行の動機は)貧乏が憎かったから東京プリンスホテル行ったら、偶然ガードマン被害者A)が出てきてああいうことになったそれ以降惰性でやった。死刑怖くないし、情状してもらいたくはない。情状なんかして被害者4人と(死刑になる)自分の命は帰らないが、あの事件起こしたことで東拘大で勉強し、『なぜ自分のような者が生まれたのか』をわかることができたから、事件起こして良かったと思う。自分死刑になって構わないが、自分のような輩を二度と出さないような社会してほしい」と陳述した。この時期から永山対し世論からは「永山死刑が怖いから社会責任転嫁している」との批判強くなっていったが、永山本人同年9月10日日記で「自分にはもう(面会来てくれない兄姉というものを考えなくてもいいと、激情あるいは憎悪駆られてあのような言葉言った」と述べている。同日公判弁護人大量情状証人申請をしたほか、同時に精神鑑定申請したが、いずれも採否留保された。 第16回公判1970年9月22日)で検察官弁護人による情状証人採用同意し精神鑑定第18回公判同年12月23日)で東京地裁採用決定した。(1回目の)精神鑑定新井尚賢東邦大学医学部教授)が鑑定人として指定され新井1971年昭和46年1月14日第19回公判で「鑑定書提出までに4か月程度要する」と表明した同年2月3日永山精神鑑定を受けるため東京拘置所(旧:巣鴨プリズン)から財団法人愛誠病院板橋区加賀)へ移送され精神神経科病棟鑑定留置された。鑑定留置2月10日まで続きその後新井永山実母青森県板柳町)を訪問して弘前精神病院入院中の長姉母系親族らと面接したり、栃木県長兄東京親族就職先雇い主らと会って客観的資料収集した鑑定人新井同年5月16日になって東京地裁刑事第5部に「永山則夫精神鑑定書」を提出した。その鑑定主文は「犯行時および現在の永山精神状態には狭義精神病思わせる所見はないが、情意面の偏りある程度認められる」というもので、新井第23回公判同年5月27日)における尋問で、弁護人から「永山は『非常に高い金属的な音の耳鳴り悩まされている』と訴えているが、これはどのような原因か」と質問され神経症的なものだろう」と回答した。また弁護人は「永山は『共産革命世の中が変わる』などの発言をしており、その言動から『妄想知覚のようなものが感じられるが?」と質問したが、新井は「妄想気分と言われるものとは違うだろう」と回答したその後永山著書無知の涙』(同年3月10日初版発行)の版元合同出版編集長である野田祐次が証言し読者からの反響読み上げたほか、自ら函館事件被害者Cの遺児宛に現金持参した領収書日付同年5月18日)ことなどを証言した編集長証言後、永山裁判長から発言許可され出版目的は金ではなく自分思想だ。こういう資本主義の)社会体制だから金は必ず入るが、自分は(金を)地獄持っていけないから、『遺族にやってくれ』ということだ。」と陳述した。 『無知の涙』を刊行し以降永山には法廷外で多数支援者ジャーナリスト・作家社会学者編集者など)が付くようになった。彼ら支援者たち永山延命図りその主張法廷述べさせるために「公判対策会」を結成したほか、永山対し「今の公判検察ペース乗せられいるから弁護団解任することで永山弁護団ペース逆転することができる」と教え永山弁護団解任するきっかけとなった

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