初公判・証拠調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:12 UTC 版)
「広島タクシー運転手連続殺人事件」の記事における「初公判・証拠調べ」の解説
1997年(平成9年)2月10日に広島地方裁判所刑事第2部(谷岡武教裁判長)で被告人Hの初公判が開かれた。 検察側(広島地検)は冒頭陳述で事件の経緯などを詳述した上で、以下のように各犯罪事実を主張した。 被告人Hは「妻に消費者金融からの借金を知られたくない」と思う一方で「夜の繁華街で遊びたい」という相反する欲望から約350万円もの借金を抱え、遊ぶ金欲しさに繁華街で知り合った女性を狙った。 その上で、被告人Hが約5カ月間に4人の女性を次々と大胆に殺害した連続殺人の心理については以下のように主張した。 警察の捜査能力にも限界があり、被告人Hは「自分は絶対に逮捕されない悪運の強い特別な人間だ」と思い込むようになった。 街で声を掛けた女性を殺しても「自分と(被害者との間に)接点がなければ検挙されない」という点から、(B事件以降は)「他人の死をも支配できる」という一種の満足感・快感を覚えた。 (A・B・D各事件の手口について)燃料切り替えスイッチを操作するだけでエンジンが自動的に停止するタクシーの仕組みを利用し、修理を口実に後部座席に移動した上で後部座席にいた被害者に「足元の配線を見てほしい」と言い、エンジンの仕組みを知らない被害者を油断させ、無防備な前かがみの姿勢になったところを背後から首を絞めるなど、巧妙な手口を使って犯行に及んだ。 また検察側は、被害者Dの2人の娘が「今でも涙が出てくる。母を返してほしい」と話していたことや、Dを殺害する直前には別の女性1人の殺害も計画し、広島市中心部でその女性を待ち伏せたことも明らかにした。 被告人Hは罪状認否で谷岡裁判長から起訴事実に関する間違い・反論について聞かれると「間違いはありません」と答え、4件の強盗殺人・起訴事実について全面的に認めた。そのため弁護人は刑法第39条に基づき心神喪失・心神耗弱による無罪・死刑回避を狙う以外の手段がなくなり、同日の公判で「被告人Hは事件当時、完全な責任能力を有していたか疑問だ」と主張して被告人調書を証拠採用することを留保した上で、精神鑑定申請も視野に入れて責任能力の所在を争う姿勢を示した。 1997年4月23日に第4回公判が開かれ、同日の公判で検察側は「被告人Hは『殺害した被害者4人・待ち伏せした女性1人とは別の女性2人の殺害も考えていた』と供述している」とする検察調書を明らかにした。 その検察調書によると被告人Hは逮捕直前の1996年8月 - 9月ごろにかけて被害者4人・およびD事件直前に待ち伏せされた女性1人とは別に、広島市内の繁華街にいた顔見知りの女性2人を強盗殺人の対象として考えていたが、途中で見失うなどしたために断念した旨を供述した。 またこの検察調書では被告人HがD事件で逮捕された際、まだ遺体が発見されていなかったB・C両被害者について遺体を遺棄した場所などを自供した理由や、被告人Hが「被害者遺族は一刻も早く死刑になることを望んでいると思うが、自分も当然だと思う。潔く裁判を受け、刑に服することが唯一の償いだと思う」と供述していたことも新たに判明した。 同日から被告人質問も始まり、弁護人が被告人Hに対し生い立ちなどについて質問した。 1997年5月21日に第5回公判が開かれ、被告人質問が行われた。弁護人側が被告人Hに対し犯行に至るまでの経緯などを質問したところ、被告人Hは「検察側主張においては妻の病気・借金によるストレスなどが動機とされているが、そうではなく『自分が前向きな人間ではなかったから』だ。1995年10月に妻が入院し、その後も病気がちだったために自分は酒に溺れ、サラ金に手を出した。その結果積み重なった借金がさらにストレスの源となり、更に酒浸りになる悪循環に陥った」と証言した。その上で、最初のA事件当時について「当時は借金が350万円に膨れ上がり『自分の行動が周囲を不幸にしている。人生の生き地獄だ』と思い、自殺も考えた。殺人を犯した当時は正常な判断ができず『自分ではない』ような感じがした」と述べた。その後、1997年6月18日には第6回公判が開かれた。
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