初公判から第4回公判まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:49 UTC 版)
「遠藤誠一」の記事における「初公判から第4回公判まで」の解説
取り調べや裁判初期の段階では非常に反省している様子で罪も認め、オウムの疑似科学に協力したことを悔いていた。そして1995年11月に悩んだ末教団を脱会。このとき取調官に対し「何をやらせても自分は失敗ばかり。二流の研究者だった」と話したという。さらに捜査段階において地下鉄サリン事件の実行犯たちが「村井を介して指示を受けた」と証言する中、遠藤は唯一、麻原から直接指示を受けたことを証言していたことから、麻原の犯罪を立証する「検察の切り札」だと見なされていた。しかし一方で、麻原を裏切るかたちをとるのに臆する様子で「裏切ると、来世がなくなる。地獄も天国もない、無になってしまう」「死刑より無が怖い」と葛藤していた。 1995年11月の初公判では「真実を歪めず、全部を話したい」との意向を表明し、真相解明に協力的な姿勢を示した。裁判初期段階における遠藤の印象について、オウム事件の裁判を傍聴し続けた降幡賢一は「真相解明の鍵をこの被告(遠藤)が握っているかのように錯覚した」と述懐している。また当時遠藤の弁護人を務めたN弁護士は初公判で「信仰や教祖に対する心の揺れ、そういった人間の弱さもオウム事件を解明する重要な手がかりである」とし、オウムを脱会した今でも、遠藤が麻原や教団との関係に悩み、揺れ動いていることを隠さなかった。そして「信仰と現実の狭間で葛藤するか弱い人間としての悩みをあえて抑圧せず、公判廷では包み隠さず、あらわにすべきものとする」と宣言した。
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