初入閣、そして連立与党の党首としてとは? わかりやすく解説

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初入閣、そして連立与党の党首として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「初入閣、そして連立与党の党首として」の解説

第23回衆議院議員総選挙の後、三木家族とともに大阪から列車乗ったところ、たまたま社会党書記長西尾末広が同じ列車乗り合わせた三木西尾東京へ向かう列車の中、そして東京到着後は新橋にあった三木事務所で、総選挙後政権構想について意見取り交わした5月7日には国民協同党両院議員総会が行われ、民族危機克服し政局収拾を図るために社会、自由、民主国民協同の四党連立挙国一致政権樹立望ましく首班第一党社会党から出るべきであるとの三木西尾会談報告了承した。四党は連立協議入ったが、自由党生産復興のために統制経済を行うとの他の三党が掲げた経済対策容認できず連立協議から離脱したため、5月30日社会党民主党国民協同の三党連立により片山内閣成立することになったこの頃GHQは、自由党自由経済標榜しており漸進的な改革囚われているとした反面社会党平和的民主的な方法革命起こそうとしていると見なしており、民主党厳格な経済管理打ち出した中道政党であるとし、そして国民協同党農民政党から合併によって基盤広げてきているが、保守的な思想日本安定化させようとしていると見なされ、また社会党哲学異なるものの、社会党衝突繰り返していた民主党異なり社会党協力して結果出そうとしていると評価された。 国民協同党GHQから社会党首班片山連立政権支え重要な役割担っている評価された。中でも農民党から脱皮して党の魅力増しているのは三木指導によるところが大きいとして三木評価した三木公職追放非該当確定したのも、以上のようなGHQ三木対す評価よるもの考えられる三木入閣当初から有力視されていたが、党務をこなしながら閣僚業務遂行していくことに不安を感じていたため、無任所相希望していたというが、結局のところ逓信大臣落ち着いた国民協同党閣僚ポスト当初議席数から見て1プラス法制局長官1.5考えられていたが、三木粘り強い交渉結果、2ポスト獲得した代議士会長笹順造が国務大臣として入閣)。これにより党内における三木威信高まり6月30日第2回党大会において中央委員長(党首)に選出された。党大会の席で三木協同主義による政策明らかにして、理解求めていくと抱負述べた。更に三木国民協同党委員長として協同主義協会事務所を自らの事務所内に置き、7月5日行われた協同主義協会第一回会合参加した逓信大臣となった三木は、戦争大きな被害を蒙った通信網復興のため全国視察し、また当時逓信省管轄であった航空行政にも係わった。また当時強力であった労働組合全逓との交渉にも腐心した社会民主国民協同の三党連立内閣成立後半年経た1947年昭和22年秋になると与党三党間、そして社会党民主党内部対立目立ってきた。特に社会党内は左右対立激化し右派中でも西尾平野力三農相との対決深まっていた。民主党臨時石炭鉱業管理法をめぐり幣原喜重郎らが離党するそのような中、民主党党首芦田1947年昭和22年9月から10月にかけて国民協同党合同呼びかけていた。このときの三木国民協同党民主党吸収合併される形の合同反対した。しかし社会党内の対立激化民主党からの幣原派が離脱するという連立与党内の混乱加え国民協同党一部日本農民党社会党平野力三らのグループ新党運動を開始したのを見てこのまま手を拱いていれば国民協同党維持できない判断した三木反転攻勢出たかねてから協同民主主義唱え秋田大助赤沢正道らが師事していた矢部貞治ブレーンとして迎え入れ新党結成目的協同党農民党などの有志糾合して新政協議会立ち上げたうえで、1948年昭和23年1月3日逆に芦田に対して合同持ち掛けたのである三木矢部社会党との関係を重視していた。当時芦田社会連帯主義修正資本主義提唱していて、社会党との連携にも積極的であり、協同民主主義唱えていた三木との接近は自然な成り行きであった。しかし中道勢力結集容易なことではなかった。2月10日片山内閣総辞職すると、後継政権あり方めぐって民主党内で斎藤隆夫らが社会党手を切り自由党連立すべきとの主張するという内紛勃発した一方国民協同党新政協議会同じようトラブル見舞われていた。平野全国農民組合派が新政協議会加入して三木主導していた新党結成動きをいわば乗っ取る動き見せ国民協同党内でも早川崇らが離党の上それに同調しようとしていた。三木新政協議会活動休止させ、最終的に自由党吉田茂首班推す全農派と芦田推する国民協同党側が袂を分かつことで決着がついた。 三木片山内閣崩壊直後社会民主連合選択するか自由、民主連合組する迷っていた。これは早川らの離党動きがある中で、まずは国民協同党組織防衛最優先とせざるを得ず社会民主国民協同連立枠組維持まで手が回らなかったためである。結局党内2月14日代議士会で「民主党支持」でまとまり社会党左派芦田首班合意した窮地陥った社会民主国民協同の三党連立維持できた背景には、自由党右翼保守見なしていたGHQ支援があった。斎藤らが民主党から離党したため、衆議院では芦田首班指名されたものの、参議院吉田指名された(衆議院の優越により芦田首相就任)。自由党民主党からの離党者などを迎え入れて民主自由党結成され衆議院第一党躍り出た3月10日芦田内閣成立組閣に際して国民協同党は党の支持基盤維持のために農林水産大臣ポスト強硬に要求したが、社会党も同ポスト強く要求した。そのため、あらかじめ大臣にはならない旨を表明していた三木前言翻し、自らが農相となってポスト獲得したい、と粘り腰見せた結局連立維持何よりも重要であるという判断に基づき国民協同党側が譲歩して農相ポスト社会党握ることとなり、三木芦田内閣入閣せず、党首として国民協同党党務専念することになった芦田内閣社会党書記長西尾末広副総理としたが、西尾届出がない政治献金発覚し、また予算修正問題では社会党下野論が噴出した内閣発足間もなく民主自由党という強力な野党出現閣内トラブルという内憂外患見舞われ芦田は、西尾助言を受けつつ三木中央政治同盟提唱した危機前に再び中道勢力結集を図ることとしのである芦田提案を受け、三木7月5日中央政治連盟構想発表した三木発表した構想は、極右極左排し中道政治実現目指し民主国民協同の両党を中心として社会党右派民自党一部巻き込んだ政治勢力結集を図ることであった。しかし国民協同党内も一枚岩でない情勢下では三木構想実現は困難であった8月半ば三木芦田民主党合同できない旨を伝えており、その後昭和電工事件によって芦田内閣苦境に立たされ、10月7日には総辞職追い込まれる

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