初入閣、そして連立与党の党首として
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「三木武夫」の記事における「初入閣、そして連立与党の党首として」の解説
第23回衆議院議員総選挙の後、三木が家族とともに大阪から列車に乗ったところ、たまたま社会党書記長の西尾末広が同じ列車に乗り合わせた。三木と西尾は東京へ向かう列車の中、そして東京到着後は新橋にあった三木の事務所で、総選挙後の政権構想について意見を取り交わした。5月7日には国民協同党の両院議員総会が行われ、民族の危機を克服し、政局の収拾を図るために社会、自由、民主、国民協同の四党連立挙国一致政権の樹立が望ましく、首班は第一党の社会党から出るべきであるとの三木と西尾の会談報告を了承した。四党は連立協議に入ったが、自由党は生産の復興のために統制経済を行うとの他の三党が掲げた経済対策を容認できず連立協議から離脱したため、5月30日に社会党、民主党、国民協同の三党連立により片山内閣が成立することになった。この頃GHQは、自由党は自由経済を標榜しており漸進的な改革に囚われているとした反面、社会党は平和的、民主的な方法で革命を起こそうとしていると見なしており、民主党は厳格な経済管理を打ち出した中道政党であるとし、そして国民協同党は農民政党から合併によって基盤を広げてきているが、保守的な思想で日本を安定化させようとしていると見なされ、また社会党と哲学が異なるものの、社会党と衝突を繰り返していた民主党と異なり、社会党と協力して結果を出そうとしていると評価された。 国民協同党はGHQから社会党首班の片山連立政権を支える重要な役割を担っていると評価された。中でも農民党から脱皮して党の魅力を増しているのは三木の指導によるところが大きいとして、三木を評価した。三木の公職追放非該当が確定したのも、以上のようなGHQの三木に対する評価によるものと考えられる。 三木の入閣は当初から有力視されていたが、党務をこなしながら閣僚の業務を遂行していくことに不安を感じていたため、無任所相を希望していたというが、結局のところ逓信大臣に落ち着いた。国民協同党の閣僚ポストは当初議席数から見て1プラス法制局長官の1.5枠と考えられていたが、三木の粘り強い交渉の結果、2ポストを獲得した(代議士会長笹森順造が国務大臣として入閣)。これにより党内における三木の威信は高まり、6月30日の第2回党大会において中央委員長(党首)に選出された。党大会の席で三木は協同主義による政策を明らかにして、理解を求めていくと抱負を述べた。更に三木は国民協同党委員長として協同主義協会の事務所を自らの事務所内に置き、7月5日に行われた協同主義協会の第一回会合に参加した。 逓信大臣となった三木は、戦争で大きな被害を蒙った通信網の復興のため全国を視察し、また当時逓信省の管轄であった航空行政にも係わった。また当時強力であった労働組合の全逓との交渉にも腐心した。 社会、民主、国民協同の三党連立内閣は成立後約半年を経た1947年(昭和22年)秋になると与党三党間、そして社会党、民主党の内部対立が目立ってきた。特に社会党内は左右の対立が激化し、右派の中でも西尾と平野力三農相との対決が深まっていた。民主党は臨時石炭鉱業管理法をめぐり幣原喜重郎らが離党する。 そのような中、民主党党首の芦田は1947年(昭和22年)9月から10月にかけて国民協同党へ合同を呼びかけていた。このときの三木は国民協同党が民主党に吸収合併される形の合同に反対した。しかし社会党内の対立激化、民主党からの幣原派が離脱するという連立与党内の混乱に加え、国民協同党の一部と日本農民党、社会党の平野力三らのグループが新党運動を開始したのを見て、このまま手を拱いていれば国民協同党を維持できないと判断した三木は反転攻勢に出た。かねてから協同民主主義を唱え、秋田大助や赤沢正道らが師事していた矢部貞治をブレーンとして迎え入れ、新党結成を目的に協同党、農民党などの有志を糾合して新政治協議会を立ち上げたうえで、1948年(昭和23年)1月3日、逆に芦田に対して合同を持ち掛けたのである。 三木や矢部は社会党との関係を重視していた。当時の芦田は社会連帯主義と修正資本主義を提唱していて、社会党との連携にも積極的であり、協同民主主義を唱えていた三木との接近は自然な成り行きであった。しかし中道勢力の結集は容易なことではなかった。2月10日に片山内閣が総辞職すると、後継政権のあり方をめぐって民主党内で斎藤隆夫らが社会党と手を切り自由党と連立すべきとの主張するという内紛が勃発した。一方国民協同党、新政治協議会も同じようなトラブルに見舞われていた。平野ら全国農民組合派が新政治協議会に加入して、三木が主導していた新党結成の動きをいわば乗っ取る動きを見せ、国民協同党内でも早川崇らが離党の上それに同調しようとしていた。三木は新政治協議会の活動を休止させ、最終的には自由党の吉田茂を首班に推す全農派と芦田を推する国民協同党側が袂を分かつことで決着がついた。 三木は片山内閣崩壊直後、社会、民主連合を選択するか自由、民主連合に組するか迷っていた。これは早川らの離党の動きがある中で、まずは国民協同党の組織防衛を最優先とせざるを得ず、社会、民主、国民協同の連立の枠組維持まで手が回らなかったためである。結局党内は2月14日の代議士会で「民主党支持」でまとまり、社会党も左派が芦田首班に合意した。窮地に陥った社会、民主、国民協同の三党連立が維持できた背景には、自由党を右翼保守と見なしていたGHQの支援があった。斎藤らが民主党から離党したため、衆議院では芦田が首班指名されたものの、参議院は吉田が指名された(衆議院の優越により芦田が首相就任)。自由党は民主党からの離党者などを迎え入れて民主自由党が結成され、衆議院第一党に躍り出た。 3月10日、芦田内閣が成立。組閣に際して、国民協同党は党の支持基盤の維持のために農林水産大臣のポストを強硬に要求したが、社会党も同ポストを強く要求した。そのため、あらかじめ大臣にはならない旨を表明していた三木が前言を翻し、自らが農相となってもポストを獲得したい、と粘り腰を見せた。結局、連立の維持が何よりも重要であるという判断に基づき、国民協同党側が譲歩して農相のポストは社会党が握ることとなり、三木は芦田内閣に入閣せず、党首として国民協同党の党務に専念することになった。 芦田内閣は社会党書記長の西尾末広を副総理としたが、西尾に届出がない政治献金が発覚し、また予算修正問題では社会党に下野論が噴出した。内閣発足間もなく民主自由党という強力な野党出現と閣内のトラブルという内憂外患に見舞われた芦田は、西尾の助言を受けつつ三木に中央政治同盟を提唱した。危機を前に再び中道勢力の結集を図ることとしたのである。芦田の提案を受け、三木は7月5日に中央政治連盟の構想を発表した。三木の発表した構想は、極右、極左を排した中道政治の実現を目指し、民主、国民協同の両党を中心として社会党の右派、民自党の一部を巻き込んだ政治勢力の結集を図ることであった。しかし国民協同党内も一枚岩でない情勢下では三木の構想の実現は困難であった。8月半ばに三木は芦田に民主党と合同できない旨を伝えており、その後昭和電工事件によって芦田内閣は苦境に立たされ、10月7日には総辞職に追い込まれる。
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