第一次控訴審・東京高裁
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「永山則夫連続射殺事件」の記事における「第一次控訴審・東京高裁」の解説
控訴審では永山が事実関係を争わなかったため、情状面における審理が中心になった。 1979年10月30日には第三次弁護団で主任弁護人を担当していた鈴木淳二が永山の私選弁護人に就任し、鈴木は1980年(昭和55年)3月13日に「“連続射殺魔”永山則夫の反省-共立運動」と連名で「控訴審では犯罪の原因・動機・結果論を追求し、それを基本に精神鑑定・死刑制度の批判を通じて人類社会から犯罪をなくすため、永山裁判の位置・意義を主張・立証したい」とするビラを作成した。また同年7月31日、鈴木は新たに受任した弁護人・大谷恭子と連名で東京高裁第2刑事部(船田三雄裁判長)へ控訴趣意書を提出し、同年9月30日には私選の5人による第五次弁護団の3人(三島駿一郎・新美隆・早坂八郎)が同様に控訴趣意書を提出した。 控訴審の初公判は1980年(昭和55年)12月19日に東京高裁第2刑事部(船田三雄裁判長)で開かれ、弁護人は「本事件は被告人(永山)の貧しい生い立ち・社会状況に関係がある。なぜこのような犯罪を犯したのか、公判の中で社会的原因を突き止めたい」とする控訴趣意書を朗読した。翌1981年(昭和56年)3月20日に開かれた第2回公判では永山と獄中結婚した女性が情状証人として出廷し「(永山と)2人で罪を背負い、被害者遺族に許してもらえるよう償い続ける」と述べた。 第3回公判(同年4月7日)では弁護側の証人による情状証言が行われ、合同出版(『無知の涙』の版元)の元編集長が「『無知の涙』の印税を京都・名古屋両事件の遺族に受け取っていただいたほか、東京事件の遺族からは受け取りを辞退されたが、仏壇にお線香を上げさせていただいた」「永山は『無知の涙』を書き、その印税を遺族に支払うことで贖罪をしている」などと訴えた。また弁護人・新美隆も「東京事件の遺族を訪れ、被害者Aの墓所を教えられたので、永山の妻に『お墓参りに行こう』と墓の場所を知らせた」と、鈴木も「永山の妻とともに名古屋事件の遺族(被害者Dの実家)を訪れて謝罪したほか、2人でDに焼香した」と証言した。 第4回公判(1981年4月17日)では弁護人・大谷恭子が「永山の妻とともに函館事件・名古屋事件の被害者遺族を訪れてそれぞれの被害者の仏前に花を供え、名古屋事件の遺族には今後印税収入を振り込むこととなった。その後、また函館からの帰りに碇ヶ関村(青森県南津軽郡)を訪れ、病院で被告人の母親に面会したが、母は相当病状が重いようだ」と証言した。続いて被告人質問が行われ、永山は「著作活動の直接の原因は河上肇の『貧乏物語』だ。日本は階級社会で自分は抑圧・搾取される階級に属しており『日本全体が憎い』と感じていたが、同じ階級の仲間を殺したことを知って非常にショックを受けた。『仲間を殺さないためにはどうしたらいいか』という一点だけでずっと勉強してきた」と述べたほか、弁護人から「もし再び社会に出られたらどうするか」と質問され「まず妻とともに被害者の墓参りをしたいし、できれば遺族に会って謝罪したい。将来的には塾を開き、『一番の点を取った人が、一番ビリの人を援助する』方向で経営したい」と述べた。また、検察官から「裁判になっている事実関係について、自分自身の責任の有無・重み・程度についてはどう考えているか」と質問され、「逮捕直後に『函館事件の被害者Cには小さい遺児2人がいる』と刑事から聞かされショックを受けた。同時に河上の本を読み、自分のしたことが『仲間殺し』と分かった。それに対する後悔から『貧乏をなくし、人間が全部助かる社会主義・共産主義を実現したい』と思っている」と回答した。 控訴審の公判は同年5月22日に5回目の公判で結審し、検察官・弁護人の弁論が行われた。
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