永山則夫連続射殺事件とは? わかりやすく解説

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永山則夫連続射殺事件

(永山裁判 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 09:18 UTC 版)

永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年昭和43年)10月 - 11月に東京都京都府北海道愛知県の4都道府県で発生した拳銃による連続殺人事件。「永山則夫事件[6]永山事件」とも呼ばれる[3]


注釈

  1. ^ a b 拳銃は西ドイツ製(アメリカ名「ロスコー」 / 製品ナンバー:744597)で[1]、「昭和43年押第1457号の3」[2]、米海軍横須賀基地憲兵隊司令部は1969年4月7日(永山が逮捕された日)に横須賀署に対し「西ドイツ製の拳銃の盗難は当局には届け出されていない」と回答した[1]
  2. ^ 堀川 (2009) は横須賀海軍施設へ侵入した日を「10月8日」としている[16]
  3. ^ 永山はこれ以前にも3回にわたり基地に侵入したことがある[17]。特に1966年(昭和41年)9月6日には基地に侵入して自動販売機からコインを盗んだが、これを憲兵 (MP) に発見され、横須賀警察署神奈川県警察)に刑事特別法違反・窃盗罪で逮捕された[18]。この事件で10月21日に横浜家庭裁判所横須賀支部で開かれた審判により試験観察処分を受けたほか[18]、1967年(昭和42年)4月28日には同家裁で開かれた少年審判により成人するまでの保護観察処分を受けたが[19]、その後は保護観察所への出頭を拒んで行方をくらました[20]
  4. ^ a b 弾条は8条・弾丸の重量は1.8 gで、真鍮状の黄色い金属を吹き付けた鉛弾[40]
  5. ^ 弾丸の一部は「昭和43年押第1457号の5」[2][注 4]。永山は拳銃・実弾(計50個)を盗んだ際に4発を落として拾い損ねたが、直後にそのまま横須賀港へ向かい、戦艦「三笠」近くの海上へ向けて計10発を試射した[21]
  6. ^ 「昭和43年押第1457号の2」[2]ペンシルベニア州の刃物会社が製造したもので、日本人は無許可で所持できず、国内では在日米海軍(厚木海軍飛行場・横須賀海軍施設など)で身分証明書を持つ人物のみに限定販売されていた[22]
  7. ^ ハンカチのうち1枚は「昭和43年押第1457号の1」、米国貨幣の一部は同押号の75[2]。東京事件の遺留品としてアメリカ製のハンカチ(蓄膿症患者のものと思われる鼻汁が付着)が発見され[23]、後に被疑者として逮捕された永山は蓄膿症を患ったことがあることも判明した[24]
  8. ^ 暴発を避けるため、拳銃の弾倉6か所のうち1発目には装填しなかった[2]
  9. ^ 男性Aの死因は左上頬骨弓部への盲貫射創による脳挫傷くも膜下腔出血などに基づく外傷性脳機能障害[2]
  10. ^ 当時の永山の所持金は2,500円程度で、映画館の料金が約300円だった[32]
  11. ^ 永山は被害者Bに2発撃ち込んでも手応えがなかったため、さらに2発撃ってBを射殺した[33]
  12. ^ 被害者Bは右前頭後部に貫通射創を、左側頭部・左側頬部・右下顎部にそれぞれ盲貫射創を負い、左側頭葉挫滅(左側頭部の盲貫射創による)および大脳などのくも膜下出血・脳挫傷により死亡した[2](致命傷は左こめかみの弾)[34]
  13. ^ 付近を警邏していた松原署・祇園石段下派出所の警官2人[35]。]
  14. ^ 事件後、殺害現場から約31 m離れた茂みの中からアメリカ製のジャックナイフが発見された[36]
  15. ^ a b 2001年(平成13年)11月5日に実施された住居表示により[42]、函館事件の現場住所(亀田郡七飯町字大川164番地)は「七飯町大川6丁目13番地3号」に変更されている[43]
  16. ^ 堀川 (2009) は「次兄は『死ぬなら熱海でもいいじゃないか』と言い、則夫はこれに失望した」と述べている[46]
  17. ^ この時、永山は「一緒に行って自首しよう」と説得する次兄を「兄貴でも容赦しないぞ」と脅しており、「北海道で必ず自殺する」と約束する形で交通費(5,000円)を受け取った。次兄は則夫の逮捕後に「則夫が帰った後で『警察に届けよう』と思ったが、気持ちの整理がつかず思い悩んでいるうちに函館・名古屋事件が起きた。そのため改めて自首するよう説得しようと思ったが、則夫は結局自分の家に一度も寄り付かなかった」と述べている[47]
  18. ^ 連絡船へ乗船する際、永山は乗船者名簿のカードに「青森市新町、中村清治(21歳)」と書き込んでいた[49]
  19. ^ 再び函館へ戻ろうと汽車に乗車した際、永山は持ち歩いていた社会科学学習辞典の余白に家族宛のメッセージとして「(前略)わたしは生きる せめて20歳のその日まで 罪を、最悪の罪を犯しても、せめて残された日々を満たされなかった金で生きると決めた(以下略)」と書き記していた[50]
  20. ^ 札幌でほとんど所持金を使い果たし、網走まで行く汽車賃がなかったため長万部駅までの切符を買い、下車した長万部駅の前で放置自転車を盗んで函館まで向かった[51]。途中、永山は人目を恐れて昼間は材木置き場などに隠れて休み、パンを買って水を飲みながら2,3日かけて函館へ着いたが、当時の所持金は100円足らずだった[52]
  21. ^ 七飯町は、中学3年生時の遠足で大沼公園に来た際にその名を覚えていた[53]
  22. ^ 函館駅から事件現場付近までのタクシー料金は当時500円ほどで、永山は狭い路地までタクシーを運転させて犯行におよんだ[54]
  23. ^ がま口は途中で中身の小銭を取り出してから捨てた[55]
  24. ^ 被害者Cの死因は貫通射創による右硬膜下出血[2]
  25. ^ 函館事件後に青函連絡船・青森駅発上野駅行きの鈍行列車を乗り継いで関東へ戻った[61]
  26. ^ 名古屋へ渡った理由について、永山は警察・検察の取り調べに対し「横浜の沖仲仕の仕事が減っていたので、仕事を探して名古屋港に行った」と答えたほか[62]、東京地裁 (1979) は「逮捕の危険を感じたため」と認定しているが[2]、永山本人は「石川鑑定」の際の尋問に対し「名古屋には当時、兄(三男)・姉(次女)・妹が住んでいたためだ。『もし名古屋で死んでも骨くらいは拾ってもらえるだろう』と思った」と述べている[63]。その一方で警察の供述調書では「名古屋には姉と妹がいた」と答えているが、この時には三兄には言及していなかった[64]
  27. ^ a b 大通りから左折して100 mほどの場所で、倉庫と空き地に挟まれた場所だった[68]
  28. ^ 函館事件後に拳銃を埋め隠していた場所は横浜市神奈川区神奈川通七丁目[66]
  29. ^ 11月3日夜は名古屋城近くの芝生広場で野宿した[67]
  30. ^ 布袋は「昭和43年押第1457号の38」[2]。またこの時、被害者Dが所有していたセイコー製の金色側腕時計1個(金メッキ鎖バンド付き・同押号の37、39)も強取した[2]
  31. ^ 被害者Dの死因は盲貫射創によるくも膜下出血・脳挫傷[2]
  32. ^ 名古屋事件後、永山が拳銃を埋め隠していた場所は真言宗の寺「大聖院」(横浜市磯子区東町6番地)[71]
  33. ^ 歌舞伎町の大衆マンモスバー「スカイコンパ」とジャズ喫茶「ビレッジバンガード」。
  34. ^ 都内における宿泊施設への一斉大立ち入り調査は西口彰事件(1963年)以来だった[72]
  35. ^ 警視庁は14日夜 - 15日朝にかけて計8,000人(機動隊員150人・機動捜査隊および白バイ隊650人・パトカー150台など)を動員し、22時 - 翌朝4時ごろまで都内の有名ホテル・公園・神社仏閣・繁華街のタクシー乗り場・主要駅周辺などで1人歩きの不審な若い男を警戒した[73]。また16日には警察庁が全国の警察に対し「犯人が立ち回りそうな宿泊施設・食堂・駅などを一斉捜査せよ」と指示し、同日19時 - 翌朝にかけて全国13万6,000か所で約70,000人の警察官(当時、犯人逮捕に動員された数としては最大規模)を動員して不審者の聞き込み・主要道路の検問を実施した[74]
  36. ^ ただし、供述調書では拳銃を掘り出した時期は「同年4月初めごろ」となっている[75]
  37. ^ 事件当時の『読売新聞』(読売新聞社)報道では「拳銃計5発を発射してうち1発がEの頬を掠め、Eは負傷した」と報道されているが[1]、東京地裁 (1979) では「(Eには)幸いにも弾丸が命中せず、未遂に終わって死傷の結果が発生しなかった」と事実認定されている[77]
  38. ^ 少年ライフル魔事件1965年)でも本事件と同様に加害者少年が逮捕直後から実名報道された。
  39. ^ ただし、永山は石川による録音テープの中で「(自分を慕っていた)妹だけは恨んでいない」と明言しているほか、次女(14歳年上)は網走に捨てられた則夫が4歳で板柳(母の出稼ぎ先)に送られた時点で既に板柳の家を出ており、その後も離れたままだった[101]
  40. ^ 長兄は私生児を作り、捨てたことで家族を困窮させたほか、東京でも自分を顧みなかったためで、三兄は「大学出」であることを鼻にかけ(実際には合格はしたものの学費等の工面ができずに入学しなかったが、家族には合格したことしか伝えていなかった[106])、幼少期から則夫を「キチガイ」「田舎に返せ」といじめていたため[5]
  41. ^ 堀江は退官後、『毎日新聞』記者からの取材に対し「(手記の草稿を読んで)『よくあれだけのものを書けるな』と感銘を受けたが、永山は(貧しさ・無知に事件の原因を求め)社会に責任を向けた。その分だけ世間の同情は薄くなったのではないか?」と述べている[10]
  42. ^ 蓑原が強硬な訴訟指揮を執った背景について、堀川 (2009) は「当時は学生運動・赤軍(日本赤軍連合赤軍)などの裁判で法廷が荒れるさなかで、蓑原自身も連続企業爆破事件の審理を同時に担当していた。弁護団側の態度も強硬だった」と述べている[113]
  43. ^ 初公判で出廷した検察官は山口裕之ら2検事、弁護人は助川武男ら3人[114]
  44. ^ 佐木 (1994) はこの言葉について、石川五右衛門三条河原で釜茹での刑に処された際に詠んだとされる辞世の句「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」を引用した上で、「『月の真砂』はアポロ11号の月面着陸(1969年7月27日)と、同号が月の砂を持ち帰ったことを意識したのだろう」と考察した[133]
  45. ^ この時、永山は「こんなことを裁判所でやるなら俺は出廷しなくてもいいだろう。そっちで勝手にやればいいだろう。こんな時間があるなら俺は東京拘置所で勉強したい」と発言していた[137]
  46. ^ Willem Adriaan Bonger、ウィレム・アドリアーン・ボンハー、オランダの犯罪学者、社会学者。『犯罪と経済状態』の英訳"Criminality and Economic Conditions"のように英語に翻訳された文献ではWilliam Adrian Bonger、即ちウィリアム・エイドリアン・ボンガーと呼ばれることがある。
  47. ^ 該当する英文は河上『貧乏物語』および原書英訳1916年版の436ページ1行目から4行目。
  48. ^ 堀川 (2009) ではこの永山の演説が行われた公判を「1970年8月の第13回公判」としているが[140]、佐木 (1994) は「第13回公判(7月7日)は手続きだけが行われ、同年8月には第14回(14日)・第15回公判(26日)が開かれた」と述べている[139]
  49. ^ 「東拘大」(トウコウダイ)とは東京工業大学のことではなく、「東京拘置所大学」の意味[137]
  50. ^ 「鑑定留置」とは、被告人・被疑者の心神(責任能力など)や身体に関して鑑定をする場合、必要に応じて裁判所が期間を定めて被告人・被疑者を病院などに留置すること(刑事訴訟法167条などに基づく)"鑑定留置". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2020年7月9日閲覧
  51. ^ a b 「永山則夫公判対策会」は第二次弁護団を解任した時点(1974年9月21日)でその機能を停止したが、これに代わり『“連続射殺魔”永山の「私設」夜間中学』が支援活動を継承した[159]
  52. ^ 通常の刑事裁判では検察官の論告および弁護人の最終弁論に先立ち、証拠調べの総仕上げとして被告人質問が行われるが、1979年当時の永山裁判では行われなかった[161]
  53. ^ 『読売新聞』は1975年に「永山は『自分の思想を理解してくれない』という理由で弁護団を解任した」[170]と、1981年(控訴審判決後)には「『自分の思想を弁護できない』という理由で弁護人を解任した」と報道している[169]
  54. ^ 堀江は同年5月1日付の事例で静岡地裁(総括判事)へ異動したが、引き続き東京地裁に兼務して永山の公判審理を訴訟指揮しており、判決公判(7月29日)を終えてから東京地裁兼務を解かれる予定だった[172]
  55. ^ 刑事訴訟法第315条の「裁判官更迭による公判手続の更新」により、公判中に裁判官が異動したことにより裁判所の構成が変わった場合、それまでの公判審理はなかったものとして初めからやり直すこととなっている[172]
  56. ^ 馬渡尚憲(法政大学助教授)・杉浦克己東京大学講師)の2人[173]
  57. ^ 永山は同公判で「静岡へ行ったのは金嬉老(同県の寸又峡温泉で銃撃戦の末に逮捕)のように警察官と派手な銃撃戦をして、射殺されたいと思ったからだ」と述べている[176]
  58. ^ 11月17日深夜 - 18日未明の間、藤江ドレスメーカー女学院(静岡市西草深町25番地)および静岡高校同窓会館(同市長谷町66番地)に侵入盗があった[178]。また静岡高校の正門前に位置する江崎グリコ連絡所では、同日未明にカーテンが焼け、板壁が焦げる放火事件があったほか、8時20分ごろに同所の従業員が出勤すると預金通帳がなくなっていたため、静岡県警へ110番通報して盗難被害を届け出た[179]
  59. ^ a b 永山は「静岡事件」後(当時逃走中)の1968年12月に発生した三億円事件について言及し、「警察は自分を泳がせたことにより『静岡事件』を起こされたが、その重大な事実を隠蔽するためにマスコミが飛びつく三億円事件を起こし、『静岡事件』から国民の目を逸らそうとした」とも主張した[181]。後に第四次弁護団は最終弁論(1979年)で「永山が三億円事件について『公安警察が静岡事件を隠蔽するために起こした謀略』と主張するのは、狂信者に多く見られるような自己の不安を避けるための妄想で、パラノイアの症状である」と主張した[182]
  60. ^ 現:静岡市葵区御幸町。
  61. ^ 永山は預金を引き出そうとした際、応対した預金係長から「通帳の名義人との関係は?」と問われ「弟だ」と答えていたが[184]、盗難被害に遭った江崎グリコ連絡所は電話でその旨を尋ねられ「弟はいない」と答えた[179]
  62. ^ 永山は1974年1月16日 - 4月1日にかけて八王子医療刑務所へ鑑定留置された[185]
  63. ^ 2017年に講談社文庫に収録[193]
  64. ^ a b 第四次弁護団は最終弁論(1979年)で「石川鑑定により、永山の脳波は後頭部にみられるアルファ波の振り幅に明確な左右差が確認された。特に右側後頭部に限局した徐波が出現しやすい傾向が強く認められ、一般の正常人脳波とは明らかに異なる」と主張した[182]
  65. ^ これに対し木村は「公判の目的は犯行の真相を審理することにある。法廷で弁護人と被告人が対立していることをあからさまにすることは得策ではない」と説得したが、永山は聞き入れず、同日は予定されていた弁護人の意見陳述が行われないまま閉廷した[170]
  66. ^ 早坂八郎[198]・中北龍太郎[199]
  67. ^ 人質との交換条件として日本国政府により釈放された日本赤軍メンバーの中に連続企業爆破事件の2被告人(大道寺あや子・浴田由紀子)が含まれていたことに批判が高まったことがきっかけ[202]。しかし最高裁・法務省・日本弁護士連合会(日弁連)の三者による協議の結果、日弁連が「速やかな国選弁護人の推薦」を約束したほか、最高裁も「特別案件」の国選弁護報酬引き上げを決め、「弁護人抜き法案」は1979年3月30日に審議未了で廃案となることが決まった[203]
  68. ^ 第四次弁護団は同年5月17日に「弁護人は私選・国選を問わず、被告人の利益を守るために存在意義があるが、法律の専門家として被告人の利益を自己の判断で決し、時に被告人の意向に反した訴訟活動をすることも認められるべきだ」とする意見書を東京地裁に提出した[206]
  69. ^ この時、支援グループが撒いたビラには「国選弁護人と刺し違える覚悟」とあったほか、弁護士会館への突入事件もあったため、東京弁護士会は国選弁護人3人に特例として3,000万円ずつ生命保険を掛け[208]、保険料は東京地裁が負担した[203]
  70. ^ また永山の怒号に反応して傍聴人1人が蓑原に対し「『静岡事件』を公開糾明しろ!」と叫んで退廷させられたほか、許可なく発言した傍聴人4人も退廷させられた[210]
  71. ^ 豊吉は退官後、2008年に『毎日新聞』記者からの取材に対し「死刑と無期(懲役)では差があり過ぎる。もし終身刑の制度があれば永山には終身刑を選択した。3人の裁判官による合議で『行政はこんな貧困をなんとかできなかったのか?』と話した。控訴審で無期懲役に覆った時は『良かった』と思った」と述べ、死刑選択に消極的だった旨を明かしたほか、永山について「拘置所(の独房内)は本でいっぱいで、外国語の原書も読んでいた。『人間って努力するとすごいな』と思った」と述べている[10]
  72. ^ 検察官は再論告(1979年2月28日)で、石川による「事件当時、永山は心神耗弱状態だった」とする精神鑑定結果について「鑑定内容と(石川の)法廷証言が矛盾しているほか、鑑定方法にも重大な欠陥があり信用性が乏しい。永山は事件当時、(完全な)刑事責任能力を有していた」と主張した[162]
  73. ^ 東京地裁 (1979) は東京事件について「拳銃の所持・横須賀事件の発覚を防ぐというだけの理由で、至近距離から顔面を狙撃した。刑事責任は重大だが偶発的な面を否定できない」として有期懲役を選択したほか[214]、原宿事件については「既に4名を殺害しながらさらにガードマンを殺害しようとした。極めて悪質な犯行だが、幸いにも弾丸が命中せず死傷の結果が発生しなかった」として無期懲役刑を選択した[215]。ただし、刑法第46条1項で「併合罪のうち1個の罪について死刑に処する場合は、没収を除き他の刑を科さない」と規定されているため、実際に適用された刑は死刑および没収のみである。
  74. ^ 同日は法廷が荒れることが懸念され、東京高裁も各階通路を閉鎖するなど厳戒態勢を取ったが、特に波乱はなかった[219]
  75. ^ 1980年12月12日に獄中結婚したが[221]、差し戻し控訴審中の1986年(昭和61年)4月3日に永山・妻とも離婚届に押印した[222]
  76. ^ 東京事件の被害者Aの母親は東京高検の公判担当検事から「照会書」を受け取り、1981年5月18日付で同検事宛に「母親として、どんな思いで殺されたかと息子の心を思うと、どのような理由があってもその罪は許せない。一生懸命に生きていた人を4人も殺してなお控訴した(永山の)罪への意識は理解できない」とする「回答書」を送っている[235]
  77. ^ 東京・名古屋両事件の被害者遺族は永山から送られた印税を受領しなかったが、函館事件の被害者(男性C)の遺族には(1971年5月18日 - 1975年8月12日の間に)合計4,631,600円を、京都事件の被害者(男性B)の遺族にも(1971年8月5日 - 1975年1月10日の間に)計2,524,400円を贈っていた[221]。また永山の妻は夫(永山)の意を受けて弁護人とともにB・C・Dの各被害者遺族を訪れたり、被害者Aの墓参りをするなどして贖罪のために行動し、名古屋事件の被害者(男性D)の遺族は「息子に対するせめてもの供養」として金員の受領は拒んだが、永山の妻に対しては快く応対し、激励の言葉を掛けた[221]。しかしDの父親は公判担当検事への回答書で「永山も自業自得とはいえ、不遇な者だと思っているし、裁判の結果でどのような処罰になっても異論はない。しかし永山は事前より強い殺意を有した上で多数の弾を撃っており、現在でも許すことはできない」と回答しており[236]、控訴審判決を受けて『読売新聞』の取材に対し、被害者Dの母親は「減軽なんて馬鹿げている。これでは自分の息子は永久に浮かばれない」と述べている[237]
  78. ^ 東京高検は上告時に「強盗殺人・殺人で4人を殺害した被告人が死刑を科せられなかった前例はなく、船田判決は同種の事件で死刑が確定している者と不公平だ」と主張した[234]。戦後、犯行時に年長少年(18歳・19歳)で死刑が確定した事例は永山以前に計37件あるが、4人以上を殺害した事件としては小田原一家5人殺害事件(1949年)および4人殺害の4事件があるほか、小松川事件(2人殺害)・少年ライフル魔事件(1965年発生・警察官1人殺害)も死刑が確定していた[240]
  79. ^ 総理府が1980年6月に実施した「犯罪と処罰等に関する世論調査」によれば、「『今の日本でどんな場合でも死刑を廃止しよう』という意見について賛成か反対か」とする質問は反対62%、賛成14%の結果が出ていた[242]
  80. ^ 『読売新聞』は夕刊コラム(1981年8月22日)にて「情状中心の『恩情判決』」と評した一方[243]、同紙の読者からは支持する意見は少なく「割り切れない」「複雑な気持ち」など批判的な意見が多かった[244]
  81. ^ 明らかに上告理由が見当たらないケースの場合は上告から3,4か月程度で上告棄却の決定(三行決定)が出されることが多い[250]
  82. ^ a b 鬼塚は1985年1月30日付で静岡地裁所長へ転出し、第2回公判(同年3月25日)からは柳瀬隆次(前:千葉地裁所長)が裁判長を担当した[260]。その後、柳瀬は司法研修所の所長に任命されたため、同年10月24日には柳瀬の後任として石田穣一(前:宇都宮家裁所長)が赴任した[261]
  83. ^ 第七次弁護団は同補充書にて「永山は『静岡事件』について陰謀論を唱えたり、自身を『史上最高の科学者。死刑にすることは全人類への犯罪だ』と発言しているほか、マスコミを相手取って多数の民事訴訟を起こしている点から、被害妄想・誇大妄想・好訴妄想を有していると考えられる。また、思考障害を有している疑いもある」として[268]、「現時点で精神分裂病もしくは何らかの精神疾患の疑いが濃い」と結論付けている[269]
  84. ^ 永山は1986年6月6日に高裁で開かれた裁判の打ち合わせで[271]、「鈴木・大谷とも自身の主張を認めず、権力犯罪である『静岡事件』の主張について『被害妄想』『誇大妄想』などと言っており、自身への裏切りだ」と主張した[272]
  85. ^ 国選弁護人の選任は裁判長が訴訟上の権限で行うもので、選任された弁護人は一方的に辞任できないが、東京の3弁護士会は裁判所から推薦依頼を受けてから弁護人を推薦することとなっている[271]
  86. ^ 「業績鑑定請求書」において求められた鑑定事項は「自身(永山)の著作において示される思想は学問上において貴重なものか、そのような思想を持つ自身を死刑にすることは社会的正義に合致するか否か」で[277]、立証事実は「永山への死刑が違法・不当である事実」だった[278]
  87. ^ 死刑執行に当たり、法務省幹部は『毎日新聞』記者からの取材に対し「本来、死刑執行は国会等のタイミングを見て行うものだが、今回は神戸連続児童殺傷事件があったため、早期に永山の死刑を執行すれば、神戸事件と一体にされて議論される虞があった。時期を慎重に考慮した」と述べた[295]。一方、松浦は同年8月5日に行われた閣議後の記者会見で「神戸事件と今回の死刑執行は全く無関係」と述べた上で、「(死刑反対運動の象徴的存在だった)永山の死刑執行に躊躇いはなかったか」という記者質問に対しては「ノーコメント。自分は淡々と(死刑執行命令書に)署名したつもりだ」と述べた[296]
  88. ^ 同日には東京拘置所で永山とは別の死刑囚1人が刑を執行されたほか、札幌刑務所札幌拘置支所でも夕張保険金殺人事件の死刑囚2人(夫婦)が刑を執行されたため、計4人の死刑執行となった[13]
  89. ^ 死亡時刻は火葬許可証に記載された時刻[298]。永山は死刑執行直前、係官に口頭で「執筆中の小説の出版を遠藤に託したい」と伝え、執行時には通常行われる教誨師による宗教儀式を拒否していた[298]
  90. ^ 岐阜県内在住の女性[299](動物美容院経営者)[300]が永山の身柄引受人を務めていたが[299]、この女性は遠藤誠と永山の最後の接見(1994年1月)ごろから東京拘置所へ足を運んだり、差し入れをしたりすることに疲れ、身柄引受人の辞任を希望するようになっていった[301]。そのため、永山は後任の身柄引受人として花柳幻舟を希望し、遠藤からその要請を受けていた花柳も前向きな姿勢を見せていたが、最終的には花柳側の事情から実現しなかった[301]。結局、身柄引受人の女性は1997年6月13日付で東京拘置所へ身柄引受人の辞任届を提出し、東京拘置所も受理したため、死刑執行時点では身柄引受人が不在だった[299]
  91. ^ 永山の遺骨はまず、大部分を獄中結婚した元妻(後に離婚)が遠藤から引き取って網走沖に散骨し、遠藤は残った遺骨を遠藤家の墓地(宮城県内)に埋葬することを考えていたが、一周忌(1998年8月1日)に永山自身の生前の意思通り網走沖へ散骨した[302]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 読売新聞』1969年4月7日東京夕刊一面1頁「連続射殺魔ついに逮捕 178日ぶり、けさ代々木の5件目で 19歳のボーイ自供 東京、京都、 函館、名古屋の全犯行 “カネが欲しかった” 英語学校に侵入 ガードマン負傷 神宮の森で警官の手に」(読売新聞東京本社
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